富山を訪ねてその1,遅まきながら棟方志功の福光。

2024年8月15日(木曜日)

夏本番前から今夏は暑いと言っているうち、いつしかその本番を迎えている。すると2日3日とブログを休みはじめ、つい休みグセがつき3日、4日と怠けるうちにまる1週間空けてしまった。

患者さんのご迷惑も顧みず11日から15日までお盆休みをもらっていたので、12日から一泊で富山県に出かけた。主な目的は一日目は福光町(現南砺市の)で棟方志功関連施設を、翌日富山市内で県立美術館を訪ねることだった。
棟方の足跡を福光に訪ねた方は少なからずいらっしゃると思われ、御地の話は皆さまから色々聞いていた。樹下美術館でも父譲りの志功の板画を数点収蔵しているにも拘わらず同地を訪ねるのは初めてだった(恥ずかしながら何事も人様の後から後からです)。

12日午後新幹線で高岡まで行き、福光へはそこからJR城端(じょうはな)線の赤い2両編成の電車だった。40分少々かけて11駅目が福光駅。
道中の窓外を楽しみ到着した駅前ではタクシーが見当たらず、駅の世話になり会社に連絡して車を待った。
やがて一台で動いているらしい車が帰って来て、帰り電車の時刻まで「福光美術館」「光徳寺」「愛染苑」を回ってもらうことにした。

福光駅天井の棟方志功作版画。
福光は地域全体が志功の町。

南砺市立福光美術館は棟方が親しんだ医王山の麓にある。人口4万6千の都市にしては大きくて立派な美術館だと思った。

広々したホール。

正面に「二菩薩釈迦十大弟子像」
夫人の機転により空襲直前に
当地へ移送された。

棟方は上記作品によって1955年サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展、1956年ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展で、それぞれ版画部門の最高賞およびグランプリを受賞し一躍世界の人となった。

「宿業者是本能
則感應道交」の襖屏風。

宿命は授かり物でありそれによって仏と感応し交わることが出来る、という意味らしい。絵画を諦めざるを得なかった棟方は重い視力障害を悔い悩んでいたが、福光でこの言葉に出会い全てを吹っ切り版画(板画)に没頭するようになった。
救いの言葉を伝えた浄土真宗の僧・仏教学者蘇我量深(りょうしん)は新潟の人だという。歎異抄から導かれた言葉のようだが真宗のわかりやすさ、自在さは宗旨替えをしたくなるほどだ。

花狩頌(はなかりしょう)。
弓矢でなく心で花を狩る。

大作、二菩薩十大弟子の両側の菩薩を文字で「普賢」と「文殊」と書いている。東京空襲で二菩薩の版木だけが焼失したため当座文字にされ、後に像として彫り足されている。

以下の「鐘渓(しょうけい)の柵」で言う鐘渓は敬愛する陶芸家河井寛次郎の窯の名で、シリーズ24作品は氏を称えて制作された。

鐘渓頌シリーズから
「瓢箪の柵」。
樹下美術館も収蔵している。

「沢瀉妃の柵(おもだかひのさく)」.
沢瀉は棟方が愛した草花。

四角い画面に女性を丸で囲み四隅に文字を配している。棟方流の曼荼羅を想像させる。

以下は同館で展示されていた福光出身の日本画家石崎光瑤の作品。石崎氏は棟方よりも年長で二人は特に親しく交わった。

石崎氏は高野山金剛峯寺の障壁画を手がけ、京都藝術大学教授も務められた。登山家として知られヒマラヤを登頂されている。福光に於ける棟方の住宅用に土地を提供するなど厚い手を差し伸べられた。

続いて光徳寺へ。

唐破風門と花頭窓が印象的。
境内に多数の大壺。

玄関脇のタカサゴユリが涼しい。

戦前文学青年で『白樺』を愛読していた同寺ご住職は柳宗悦の民芸運動に感銘を受け、その美と浄土真宗の他力の考えの根底が同じであると理解するに到った。
昭和13年、河井寬次郎を介して住職と知り合った棟方は福光訪問を重ね、昭和20年空襲の東京を避け、ついに一家6人福光へ移った。福光では同寺の世話になり宗教風土と風光に親しんだ。偶々過日ある方から、かって同寺が制作した志功板画の風呂敷を頂いていた。帰り際寺の女あるじにそのことを話すと、今ではとても珍しいことですと仰った。

以下は良寛による「花無心招蝶」の詩。自然界の美しい摂理を歌い人間もまた然りとしている。

樹下美術館の人齋藤三郎もこの詩の一節を好んで焼き物や絵画に書いた。

齋藤三郎作品の「花開時蝶来」
(樹下美術館収蔵)

民藝運動のパイオニア
柳宗悦の掛け軸。
廊下で見て心打たれた。

色紙(無盡藏」。

 

「光徳」の掛け軸。
「華厳」と一対らしい。

以上光徳寺の略略でした。次の訪問先は「愛染苑」です。

福光の生活が始まった頃の
棟方一家。

ささやかな仮寓とはいえ住まいを得た夫婦と子らの安堵は如何ばかりだっただろう。

上に記した石崎氏が“福光の町を歩き歩き(福満之魔智於阿留機阿留機、、、云々)、ヒヤシンスを求め、それを大切にしても道に落としたりと書かれているようだ。文末の「飛矢志武壽」もヒヤシンスと読むらしい。私には難読だが絵から花への感謝が伝わる。

福光の風光をを呉須で描いた
陶板。マチス風でとても良い。
こんな作品を持てたら、、、。

女人観世音版画巻(全12柵)

愛染苑を出てすぐ向かいにある6年を過ごした住居「鯉雨画斎(りうがさい)」へ。

 

茶の間

アトリエ鯉雨画斎
黒い雨が降りしきる中
赤い鯉が昇っていく。

トイレ。
喜びの仏などが
天井まで描かれている。

以下は新居(鯉雨画斎:りうがさい)完成祝いの寄せ書き。大原美術館館長・大原 總一郎、民芸運動で陶芸の巨匠河井寛次郎、濱田庄司の名が見える。

屏風の右側部分。齋藤三郎の
署名があった(斜めの青丸沿いです)。

以上福光の棟方志功関連の施設回りの略々でした。いつものように昼食抜きの急ぎ足で、3時間弱のタクシー貸し切り代は11850円だった。
もう少ししっかり見て来れば良かったと反省点が多い。タクシーは見学時間の予定を告げその都度迎えに来てもらう方が安く済むかもしれない。
富山に戻ると駅前に
ミストの煙。

富山の宿泊は5年前訪問と同じクラウンプラザホテルでした。

夕食はホテルの洋食。
クレープを重ねたケーキの
美味しかったこと。

令和元年、同ホテルでの朝食時、新元号の名付け親である中西進さんにお会いし写真をご一緒して頂いた懐かしい思い出がある。

夜の市電
「国際会議場前」停留所で。

夜の電車を撮るためホテルのすぐ近くの停留所「国際会議場前」で待っているとやって来た。新幹線に備え市内交通網整備の一環として導入されたという路面電車。今どきの時勢とは真反対だが成功し充実、市民に愛されているという。
この時も、待っているとポツリポツリと人影があらわれ間もなく電車がやってきた。都会だなと思った。

路面電車が走る町は旅情と活気があって楽しい。かっての東京のほか後年は長崎や熊本の市電にも乗ってみた。このたびは撮るだけだったが次は乗車したい。

非常に長くなりましたが、翌日の富山県立美術館と富岩冠水公園観光を次に掲載させてください。

本日は太平洋戦争の終戦(敗戦)記念日。偉そうに言うわけではないが、うぬぼれた勘違いだけはストレスレベルまで謹みたいと思う。

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