1月3日夕刻と4日午前の高松市、美しい松と命の讃岐うどん。

2024年1月19日(金曜日)

遅々として進まぬ正月旅行記ですが1月3日午後遅く、直島から四国へ、ようやく後半の高松市に入った。雨でしたが傘をさすほどでもなく助かりました。港、駅、主なホテルがほぼ一地区にまとまっていて、交通の利便が計られていました。

高松港の2本のモニュメント。2010年に開催された瀬戸内国際芸術祭に設置された大巻伸嗣氏の作品。その後2022年の瀬戸内芸術祭を経て長く高松港のシンボルになっている。

JRホテルクレメント高松の部屋から見た高松駅方面。大都会だと思いました。反対側、ホテルの裏手は港です。

香川、高松といえば何といっても讃岐うどん。夕刻駅で明日の列車マリンライナーの切符を買い、ホテルで傘を借りてうどんを食べるべく街へ出ました。
食べ物屋さんがある繁華街のアーケードはすぐ近くと聞いたのですが、中々着きません。今や健常な層と異なり年寄りの足は距離や時間が違うのでしょう。傘を開いたり閉じたり、幾つも街角を曲がってようやく店を見つけました。

お願いしたうどんは熱々の桶に入り、海鮮が効いた甘めのタレも器ごと熱々でした。
妻には内緒でしたが、入店して座ると何故か頭がぼーっとして上手く気が回らない感じがしていました。三日間毎日1万歩は歩き、当日もすでにそれを越えていました。

昼を抜いているのですから、低血糖気味だったのかもしれません。慌てずにまず熱いつゆを口にし、ゆっくりうどんを噛みしめながら食べました。

ああ讃岐うどんは大学病院時代、専門店が近かったのでどれだけ食べたかわかりません。こちらに来て足かけ49年、久し振りのうどん、それも正真正銘、本場の讃岐うどんです。持ち上げてみる非常に長くてずっしり重く、滑らかさ、湯がき方、熱さ、風味、分量、申し分ありません。
立派なことに桶などに入れてある。ゆっくり食べ始めると間もなく頭がしっかり働き出しました。高松の夜歩き疲れて食べた讃岐うどんは生涯忘れられない事でしょう。

地元の家族さんらしき方達も皆うどんですし、出がけにお金持ちそうな黒づくめの外人さんご夫婦が嬉しそうに入ってきました。

さて翌4日、昨日とは打って変わり気持ち良く晴れました。朝早くからホテルのすぐ近く高松城跡(玉藻城跡)である玉藻公園に行きました。玉藻は万葉集で柿本人磨が讃岐の国の枕言葉に 「玉藻よし」と詠んだことに因み、一帯が玉藻の浦と呼ばれたことによるそうです。

自分が世話になった大学病院の前に渋い木工椅子テーブルの喫茶「玉藻」がありました。懐かしい店ですがエプロンをした粋な主は高松の人だったのでしょうか。く

玉藻公園の入り口。

高松という都市名の由来が良くわかりました。南陽に映えて生き生きとした松でいっぱいの公園。実際正月早々、松の手入れに勤しむ職人さんたちを見ました。
石垣も美しく三方海に囲まれていたという城跡はブラタモリで観ていました。海水を取り入れた構造で、いまなお海とともに生きている城という雰囲気があり、歩くと元気が出ました。

桜御門。戦前国宝指定の前夜、空襲によって焼失。令和4年に再建されている。

入り口両側の積み石は見事で現代的な造形そのもの。いにしえの人々が有した美的センスは現代と遜色無いレベルではなかったかと思いました。自然や建造物と調和させる、という点で言えばなおさらです。、

園内の一角でみたソテツ。温かいところだとこんなに葉が茂り幹が太くなるのかと驚きました。

琴電が忙しく往き来していました。

その琴電に乗って高松市立美術館へ。駅で降りると晴れ着を着たワンちゃんと出会いました。忘れるところでしたが、お正月だったのですね。

きれいな緑色の電車

美術館ロビー。

現代絵画と香合の展示を観て館内のカフェで一休み。

ソニーのカメラを持参しました。

昼が近づき高松駅へ。

JR予讃線の列車はおしゃれです。

マリンライナー。
二階のパノラマシートが取れていました。

この年になってようやく出会った瀬戸大橋と特急列車。およそ10㎞にわたって瀬戸内海の島々を繋ぐひと時は壮快でした。

一昨年でしたか、一種興奮とともに読んだ村上春樹の「海辺のカフカ」。登場人物達はそれぞれの因縁に導かれ次々と高松へとやってきます。
主人公がたどり着いた高松市のクラシカルな図書館は、作者の若き日に親しんだ西宮市のものだったことは知っていました。しかし一種神秘的な空気を漂わす小説ゆかりの場所に淡く期待していましたが、図書館は勿論深いジャングルのような森と寂しい農村などを探す時間はありませんでした。

僅かな滞在でしたが、陸海が一体化した交通、美しく健康な松と立派な石垣の城跡・玉藻公園、そして讃岐うどん!四国高松はそれで十分でした。

学生時代と大学病院の医局時代、13年間をともにしたNは高知の人でした。若き日、休みになると宇高連絡船と急行など10時間も掛けて東京・高知を往き来したと聞いていました。
今回お洒落なフェリーでしたが、昭和30年代中頃~40年代の高松市や宇高連絡船はどんなだったのでしょう。元気なら色々話したかったNは一昨年亡くなり、気がつくと寂しくなります。

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