2019年11月6日

去る週末の谷根、野田行き 秋冬の楽しみ。

2019年11月6日(水曜日)

柏崎市は石仏、石塔が良くみられ、街中のほか特に周辺部に多く残されているように思われる。主に庚申塔の探訪に、今年は1月中に三度柏崎へ出かけた。
その後温かくなり樹下美術館が開館すると一旦小休止、このたび秋深まるとまたぞろ車を走らせるようになった。
去る11月2日土曜午後は柏崎市の谷根(たんね)と野田へ、翌3日日曜日に柏崎市内へ行ってみた。

2日午後の谷根と野田行きは直ぐに日が暮れ、翌3日は新潟市への途中で市街の四谷へ寄った。
以下は2日の柏崎行のひとこまです。

 

谷根は霊峰米山の真裏にあたり、谷根川に沿って集落がある。
奥まった場所のイメージはあるが案外近く、あっという間に到着する。

 

路傍の一群の石仏の中に庚申塔(左・文字塔、右青面金剛の石仏塔)。
事物として下の二臂は弓と羂索、上の右臂は鎌ですが、左は分かりません。
この像では、青面(しょうめん)金剛に脇侍として二体の童子が小さく配されている。
※掲載時、金剛の脇侍に菩薩と記しましたが、調べますと「二童子」ということ
でしたので、訂正しました。
二童子は青面金剛像の庚申塔で、三猿、鶏と並び約束事の一つということ。
宝珠や香合を持つらしいのですが、この像では今や判然としません。
二童子が掘り出された像はそう多く無いようです。

 

もう一基の青面金剛になる庚申塔。
合唱する手を中心に弓矢と宝剣?および掴んだヘビが円弧を描いて配されている。
(荒ぶる青面金剛は時としてヘビを掴む)
いずれも本尊の下に三猿が彫られている。

村落に真言宗豊山派の慈眼寺がある。拙家の宗派でもあり親近感からお参りに寄った。

 

 

慈眼寺の山門。

 

境内の右・弘法大師碑と左・宝篋印塔(ほうきょういんとう)

 

慈眼寺門前の二十三夜塔。
その昔谷すじのある夜、二十三夜の月は如何ばかりだったか。
集った女性達は勤行し、四方山話に花を咲かせ、世を徹して過ごした事だろう。

 

谷根を少々奥へ進むと米山の登山口がある。そこに4基の石塔が並んでいる。

 

左から馬頭観音菩薩、山の神の文字塔、二基の請雨三尊。

 

 

馬頭観音。

 

馬頭観音の頭上に馬の顔がシンボルとして彫られている。
村落を守護するとともに、大切な牛馬を供養する意味が附されている。

 

 

雨乞い三尊と呼ばれている三体仏が並んでいる。
“今に夕立がくるやら~”と甚句に歌われた米山は雨が多い所といえる。
それでも雨乞いをしなければならないほど甚大な干ばつ被害があったことが窺われる。

谷根からもう一本東の鵜川の川筋に野田集落があり、そこにも寄らなければならない。日は短く早々に谷根を後にした。

 

野田で称名寺を目指した。寺の手前に焔魔堂(えんまどう)がある。

 

焔魔堂の左手に二十三夜塔と庚申の文字塔。
男性中心の庚申待ち、女性の二十三夜の月待ちは、ともに村落維持に重要で、
ひとときの娯楽でもあった。
しばしば二つの塔は並んで建っていて微笑ましい。
石塔は先人への供養であり、生存の証しあるいは感謝の記しであろう。
手を掛けて生活の痕跡を残した昔人の心ばえが偲ばれる。

焔魔堂の先、小高い杉木立の中に浄土宗称名寺(しょうみょうじ)がある。

 

 

重厚な唐破風向拝(からはふうこうはい)。

 

精緻な彫刻があしらわれた向拝柱と木鼻。

 

向拝の天井。
枡目の中に四弁花を連ねた紋様が整然と彫られている。

 

優雅な窓を設えた欄間障子。
称名寺は安政4年(1857年)再建とある。

 

 

野田の石材屋さん。その昔石工(いしく)と呼ばれていた家かもしれない。
一帯は石仏石塔が多く、石工が大活躍していたことが偲ばれる。
名工ともなると各地から声が掛かったようだ。

路傍の随所で見たオヤマボクチ。

 

称名寺境内のサザンカ。

秋の山里を巡ると気持ちが和む。
以前も暇があるとそうしていたが、今は寺や庚申塔などが眼に入るようになった。そられの眺めにはふる里やいにしえの生活、および昔人の願いが偲ばれ、そこはかとない懐かしさや共感が去来する。

秋冬の気象は良くないが、里や鳥、荒海や雲など、この季節ならではの趣きに触れる事が出来、それなりに楽しめると思う。

翌日3日、柏崎市四谷のことは後日記載させて頂きます。

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