2018年10月21日

齋藤三郎(陶齋)の二つの菓子器その2、壽山窯作品との出会い。

2018年10月21日(日曜日)

前回記述しましたように、若き齋藤三郎は近藤悠三の
後富本憲吉へと師事した後、昭和12~13年に京都
で独自に制作します。
その京都時代の昭和13年のある時期に、乞われて兵
庫県は宝塚市の雲雀丘(ひばりがおか)にある壽山窯
(じゅざんがま)に招かれました。
壽山窯はサントリーの創業者・鳥井信次郎氏が自邸庭
に所有した製陶所でした。当時サントリーは壽屋酒造
の時代であり、信次郎自身、壽山と号していたといい
ます。

鳥井信次郎は2014年9月からの連続テレビドラマ「マ
ッサン」で“大将”と称され親しまれた鴨居欣次郎役の
モデルでもあります。

壽山窯には齋藤三郎の師であった近藤悠三はじめ何人
かの陶芸家が所属し、ほかに画家や書家も加わり全体
は壽山荘と称し、一種文化村の趣きを有していたようで
す。

さて前置きはこのくらいにして、樹下美術館の開館に
あたり齋藤三郎の壽山窯時代の作品と出合いたい、と
長く念願していました。

実は上越の陶齋コレクターから壽山窯の色絵作品を譲
り受けていました。壽山窯のサインは陶齋風と言えな
くもなかったのですが、図柄が中国風であり、作家サ
インや印影もなく、後に違う作者と判明しました。
こうなるとますまず同所の齋藤作品への思いがつの
ります。

ところがある日のネット検索で染附の壽山窯作品が現
れました。
サイトには染附竹林菓子器とあり、鶴の文様が描かれ
ていると説明されていました。

しかし壽山窯にはほかに陶芸家が居ますので、齋藤
作品の可否は判りません。三郎はかっての師たちの
影響を忠実に受けています。しかも同窯には師の一人
後に人間国宝となる染附の人・近藤悠三がいました。
制作者は近藤悠三なのだろうか?
価格は5000円という廉価でした。いずれにしても手に
取ってみたいと思い、早々に購入手続きを行いました。

 

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届いた器の箱。手垢、汚れなどは無く、文字も書いたばか
りのように歴々としていました。長く仕舞われたままだっ
たのでしょうか。

表書きの文字は三郎を思わせますが、それだけでは本人作
とはいえません。

 

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箱の裏書き末尾に壽山窯。そこに「斉」の印影があるでは
ありませんか!前回の染附菓子器にあったものと同じです。
齋藤三郎は壽山窯の制作でも自らの印影を残し、我が作と
して伝えようとしていたのです。

 

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出て来た染附 竹林菓子器。底と口に呉須(藍色顔料)で輪
を描いています。出品者が言うように確かに鶴が飛翔してい
るように見えなくもありませんが、“雪持ち笹”が一層強調さ
れていました。

 

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裏面の記銘は壽山窯。全体のあしらいは前回の菓子器と似
ています。

5000円の価格から数物(かずもの)として多く制作された
品の一つだったかも知れません。はたして売り主は鳥井信次
郎と壽山窯のことを承知していたのでしょうか。
いずれにしましても、この器は樹下美術館に於いて唯一齋藤
三郎の壽山窯作品になりました。

ちなみに、以下に昨日ご紹介した器の箱に記載された文字
を比べてみました。

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「菓子器」の「器」は双方非常に似通っています。
左:前記した昭和12~13年、独立時代の「染附菓子器」。
右:昭和13~15年、壽山窯時代の「染附 竹林菓子器」の
もの。

 

IMG_4389
二つの菓子器を並べました(サイズは共に21㎝)。京都と
宝塚市、制作場所と状況が異なる20才代半ばの三郎作品が
、70年近く経って樹下美術館で出合う。
出来事は単なる蒐集者の満悦ではなく、作品を介して若き齋
藤三郎その人、あるいはその命と出合えた喜びが大きいので
す。
ある人の作品を蒐集する事は、作品とともに作者を“愛する”
ことにほかなりません。
さすればその若き日の作品を見たいと熱望することも世間の
通念と同じではないでしょうか。

現在二つの器は「齋藤三郎の染め付け」として展示中ですので、
どうかご覧下さい。
この先も展示物のエピソードなどをご紹介してみます。
このたび二つの菓子器はとても長くなりました。

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