霧雨の大洞原を再び訪ねた。

2017年11月4日(土曜日)

去る9月、妙高市は関山の大洞原で農業を手伝っている方か
ら美味しいトマトとトウモロコシを頂いた。
また倉石隆氏のスケッチと油絵に昭和20年代中頃の大洞原を
描いたと考えられる作品があることから興味を持つに至り、9月
中旬に初めて同地を訪問した。

戦後、国・県によって進められた集団による開墾は馴染みが
無く、詳しく知りたくて妙高市役所にお電話をしたところ、入植
第一世代に当たるSさんを紹介して頂いていた。
間もなくSさんから貴重な資料本三冊が届けられた。

本日午後霧雨の大洞原のお宅をお礼かたがた訪問した。
90才をこえられる氏は移動にご苦労をされていたが、頭脳、
感覚はしっかり維持され、純粋で闊達なお人柄だった。

痩せて広大な大地の開墾は途方もない事業である。
較べるべくもないが、庭の除草で腰が痛いと言う私などは揺り
かごの中の赤ちゃんみたいな話である。

 

1
↑大洞原のほんの一角。

2
立派な大根が干されている。
入植当時の地味は痩せ、カボチャはツルがわずかに伸びるものの、実を
つけることは無かったという。
導入された育牛によって得られた肥料と生乳の現金収入が開墾を下支
えすることになる。
5
↑傾斜地をささえていた大きな石。黒い表土のわずか50~60㎝下に礫
とともに分厚く埋まっていたものらしい。

6
巨岩は妙高山の噴火の凄さと開墾の困苦を物語っている。

 

敗戦に終わった国の農家の次男三男たちフロンティアによる開墾。新
天地を得て子孫に残すべき希望だけが、執拗な草木の根と岩石、そし
て飢えとの格闘を日々可能にした。
大洞原開墾は県下各地から集まった人々によってなされ、S氏は西蒲
原は旧味方村のご出身。

戦後妙高山麓には九つの開墾地が設けられ、武蔵野と命名された土
地には東京都出身者が中心となって入ったが、成功しなかったという。

数知れぬ失敗、朝鮮戦争と施策の変遷、多くの去就、節目の困難に
強いリーダーが現れ、問題を克服して今日に至っている。

 

3
クラインガルテン妙高(滞在型市民農園)という新機軸の居住地区と
トマト畑。
先日の訪問の折、若い両親と子供たちが憩っていた。
現在の大洞原は大きな二つの時代が入り交じっている、とはS氏の言葉
だった。

 

7
↑昭和62年、開拓第一世代入植40周年を記念して建立された碑。

S氏宅に2時間余お邪魔した後、関温泉方面へと上ってみた。

8
↑妙高カントリークラブを過ぎた右手にあった「休暇村 妙高」。
ここは五最杉(ごさいすぎ)という場所であり、昭和22年に開墾隊が最
初に入植した土地。
同地は地形、地味、水利など問題が多く2年で中止となり、平均200メ
ートル高度が下った国道8号線に近い大洞原へと移ることになる。
地元住民との協調も多くの曲折が必要だった。

9
国立妙高青少年自然の家付近。

霧雨が降り止まず車外温度は7度を指していた。
山麓の雪はそこまで迫り、すでに初冬を迎えている。
妙高山の自然と人間が織りなす歴史をわずか一コマながら垣間見た3
時間だった。

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