全力外交。

2015年9月18日(金曜日)

これまでの政府解釈で良かったものを、
本日の国会委員会は集団的自衛権の容認を決議した。
数の力で決着する民主主義であれば形式上どうにもならない流れだ。

「日本をとりもどす」と書かれたポスターをよく見る。
「美しい国 日本」と言って登場した人がそのリーダーだ。

同じ人が今日全力で取り戻そうとしているのは「軍事同盟強化の国 日本」であり、本日その道筋を付けた。
「美しい国」とは天地ほど違う。
地域の国道や県道は夏草ぼうぼうで、河川に大洪水が起きる国での出来事である。

このたびの安全保障で言えば、専守防衛と集団的自衛権では思想も内容も全く異質であることは私にも分かる。
前者は生存上の国内に於けるミニマムな備えに対して、後者では国外で他国の為に戦う命令が可能になる。
憲法が苦労して支えてきた尊い不戦思想が破られ、突然戦争への門戸が開かれたことになる。
心根の優しい人々から戦争法案として忌避されるのは当然の話である。

ところで安全保障の解釈拡大には「軍拡」が影のように付帯することだろう。
それは国内外の緊張と闘争意識を高めようが、果たして戦争の抑止に繋がるだろうか。
軍拡を喜ぶ一群は居る一方、その際限の無さに歯止めなどないことだろう。
壮大な無駄遣いと国家の疲弊、、、真面目にやるほどそうなる。

そんなことをなぜ今?
「今度こそ勝ちたい」、こっそり生き続けた戦前の亡霊が目を醒ましたのか。
それとも目に見えない集合コンプレックスの裏返しなのか。

先の大戦後、国は平和を尊び労働を喜び、経済文化文明を立派に再興した。
愚直なほど真摯な道は、膨大な戦争犠牲者に対する申し開きの歴史であったようにも振り返られる。
それなのにもう一度戦の際(きわ)に立つことを始めるとは。

日本が近代かけて蓄積した智恵と経験の全エネルギーをなぜ外交に集約しないのだろう。
そこには世界に類を見ない独特の価値と力が潜んでいるはずである。
「積極的平和」というならばそういうことではないだろうか。

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