鉄ちゃんというわけではないけれどその3 60年前の修学旅行の逸脱。

2015年3月25日(水曜日)

1956年(昭和31年)10月、中学二年生の私たちは関西旅行に行った。
行き高田発5:45→19:37京都着、帰り大阪発20:12→翌日9:08高田着と「修学旅行のしおり」にある。
当時の北陸本線は蒸気機関車で、片道13~14時間かかっている。

ところで、私が通った中学校は新潟大学教育学部付属高田中学校という長い名前の学校だった。

学業と品行、それに戦後らしい自由さの側面も重んじられていた。
品行で言えば、学内に「風紀委員会」が、さらに「懲罰委員会」まであった。
ある新任教師は着任の挨拶で「この学校に来て大変驚いたことがある、
懲罰委員会という恐ろしいものがあることだ」、と嘆くように語った。

そうかと思えば、「二十四の瞳」だったか映画鑑賞の時は、
映画館までの道のりを男女手をつないで歩くように言われた。

二年生秋の修学旅行は、何事も一生懸命な学校の最も重要な行事だったにちがいない。
今見る旅行のしおりには、詳しい見学先の説明と厳格な行動規律が沢山並んでいる。
「班ごとに行動せよ」は今でもどこでも変わりないことだろう。

しおり41ページもある修学旅行のしおり。

その大事な旅行の車中で、私は早々にある級友と大目玉をくらう行動をした。
それなのに時が経ち、いつしか逸脱の相手が誰だったか、思い出せなくなっていた。

ところが2007年6月樹下美術館を開館して間もなく、高名な外科医になっていたA君が訪ねてきた。

「中学校の修学旅行の途中で機関車に乗ってしまい、物凄く怒られた。誰かと一緒だったと思うが君じゃなかった?」
と言った。
忘れもしない私も誰かと私たちの列車を牽引する蒸気機関車に乗った。
しかし誰とだったのか、すっかり忘れていたのだ。
まさかA君とだったとは。

「戻って延々と怒られたよな、その時の説教は後々までトラウマになったほどだ」とA君は言った。

修学旅行の列車は敦賀かその先の駅で長時間停車した。
退屈していた私と誰かはホームに降りて先頭の機関車を見に行った。
そこで乗っみたいと、機関士に訊いたのだろう。
機関士は乗せてくれ、あまつさえ発車後も同乗させてくれたのだ。

区間は険しい山中、思ったより広い室内で機関士たちは忙しかった。
そんな所へ生徒二人が入ってきて迷惑ではなかったのか。
それでも大きなシャベルで何度か石炭をくべさせてもらった。
トンネルをくぐって大いに煙を浴び、石炭ガラが目に入った。

ようやく停車した駅で降り、ある種ほうほうの体で席へ戻った。
顔はススだらけ、石炭ガラに悩まされた目は真っ赤だったと思う。
どうしたんだ、みんなで探していたんだぞ、級友たちの声が聞こえるようだ。
無理も無い、班が異なる生徒が二人車内から消えてしまったのだから。

事故や駅への置き去りなど真剣に心配されたことだろう。
A君は特にB先生から激しく叱責されたという。
不思議なことだが、私はそれほど強い叱責の記憶がない。
鈍感だったのか、あるいは幾分優しいC先生の説教だったのか。

A君がトラウマになるほど叱られたと聞いて、非常に気の毒に思った。
もしかして全て私が言い出したのではと、自責の念まで交錯した。

不思議なのは、あれだけのことをしたのに相手のことを忘れてしまっていたことだ。

「君と一緒に機関車に乗ったような気がする」
懐かしい級友の突然の一言は、疑問を一瞬に晴らした。
60年前の共犯者がA君で良かった。しかも名医になったのは見事なトラウマ返しではないか。
「同級生が美術館をやるのを誇りに思う」と彼は言った。

今夏久し振りに開催される同級会の知らせが届いている。
今から楽しみだ。

二月堂下で東大寺二月堂下の記念写真。

ちなみに、「修学旅行のしおり」に、一升五合の米の持参、お小遣い800円などとあった。
〝出来るだけ標準語を使うように努力しよう〟
〝ニックネームは言わないこと〟などがしおりに書かれている。

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