2015年3月
春の夜のクリスマスローズ 「〝年はひとが取るものだ〟と思っていました」は名言。
樹下美術館の庭で昨年秋にヒメシャラの若い株立ちが枯れた。
本日昼、それを掘り出して買ってきた2メートル少々のモミジを植えた。
姿が良くても難しい木があり、浜風と砂地の樹下美術館は活着するまで悩ましい。
夕刻の仕事後、まだ空が明るいので最後になったクリスマスローズを5株植えた。
ずっと沈丁花が香っていて、どういうわけか終わる頃一匹の雨蛙が鳴いた。
全てが終わえると随分東へ寄った月がきれいに昇っていた。
以下連日のクリスマスローズで申し分けありません。
庭の灯でクリスマスローズを撮した。
フラッシュ無しの手持でブレましたが、夜の花は昔の洋画の女優さんのように魅力的だった。
さて比較的お元気な患者さん達の畑仕事が一斉に始った。
本日足腰の痛みを訴えた昭和11年生まれの女の方がこう仰った。
「〝年はひとが取るもんだ〟と思っていました」
立派な名言である。
私はそれでいいと思う、どこかでず-とそう思うのはやむを得ない。
たとえ年取ったな、と感じても「年はひとが取るもの」で生きて行くような気がする。
ただし「病気はひとがなるものだ」と考えるのはいけませんね。
お客様も花。
ほどよい気温、わずかに春がすみ漂う昼でした。
お茶を飲みに寄ったカフェの丸テーブルに、賑やかな奥様たちのグループ。
水盤が見える窓辺には若いお嬢さんが二人。
お二人ともカメラをお持ちでした。
「花は撮られましたか」と訊きますとと、「庭に行ってもいいんですか」と仰いました。
「もちろんいいですよ、沢山写真を撮ってください」とお伝えしました。
庭で花が咲きほころび、館内でくつろぐ皆様も貴重な花のように感じました。
初ゴルフ 順調なギター演奏会のお申し込み。
本日非常に賑わった米山水源CC$Hでゴルフをした。
スコアはまずまずとして、和気あいあいで楽しかった。
それにしても最近の天気予報は良く当たる。
本日の午後から一時降った雨、それが夕方には上がったのは予報通りだった。
私のゴルフのアプローチももう少しぴたっと当たってほしいところ。
明日は全国的に好天のようですね。
4月19日は佐々木忠教授のギター演奏会。
3月15日開館後、お申し込みが増えて現在40名様を越えてきました。
まだお席がありますのでどうぞお気軽にお申し込みください。
17時30分開場、18時ちょうど開演です。
どどっと来た春 クリスマスローズの庭 大らかな新堀川の桜
連日の好天、春はどどっとやって来ました。
本日の樹下美術館は男性が沢山こられたそうです。
樹下美術館では男性がみな好男子に見えてくるといいますから、不思議なのです。
今年はセールで安くなったクリスマスローズを沢山買いました。
勉強して大株になるように育て、樹下美術館の名物にしたいと思っています。
本日、ボタニカルアートを描かれるY子さんがスケッチにこられました。
いつもほくほく線に乗って来られますが、今日はカフェで食事もされ5時間も滞在されたそうです。
スケッチの一枚を頂戴しました。
滑らかな線、安定した構図、詳細な観察、とても感心しています。
記念に館内のお声ノートに貼らせて頂きました。
さて本日ブログのヘッダーを春向きに替えました。
近くの新堀川公園の桜です。
一帯は雪が少ないため樹形が大らかでとても気持ちが良い花所です。
樹下美術館からゆっくり歩いて10分、一週間後ほどで開花でしょうか。
開花の具合を樹下美術館にお尋ね頂き、どうか一度ご覧下さい。
鉄ちゃんではないけれどその4 修学旅行で蒸気機関車に乗ってはいけなかった。
一昨日は小生の中学時代、1956年(昭和31年)の修学旅行中に級友と起こした騒動を書かせて頂いた。
当日私たちの列車を牽引していた蒸気機関車に乗った事をある種冒険のように書いた。
しかし二日経ってどこか違うのではないかと、気になってきてあらためて思いを巡らせた。
特に陸上競技に優れた明るいA君の「叱られてトラウマになった」という一言が重さを増した。
考えてみれば次のような疑問が浮かぶ。
疑問1.機関車の運転士は果たしてすんなり同乗させてくれたのだろうか。
疑問2・何故私はA君のことをすっかり忘れていたのだろう。
疑問3・何故A君だけ強いトラウマを生じたのだろう。
疑問1だが、二人で先頭の機関車を見に行ったのは良いとして、問題は乗車の経緯だ。
「乗せてほしい」と訊いた時点で、機関士は少なくとも「先生に聞いてきなさい」と言うのが普通ではないのか。
どうしても乗りたい私たちは(少なくとも私は)は、果たして先生にちゃんと相談したのだろうか。
これに関して、機関車から仲間たちが居る客車に向かって懸命に走るシーンがぼんやり浮かぶ。
走りながら「先生に言わなければいけない、でもどうしても乗りたい」という葛藤があってもおかしくない。
担任、特にB先生は機関車に乗ることなど絶対に許さないはずだ。
皆の所へ行き生徒だけにt告げ、機関車士には「先生に言ってきた」と(私が)嘘をついたのではないのか。
となれば事の善悪は明らかであり、冒険は罪に変わり気まずい空気が生まれた可能性がある。
生徒は担任に話し、厳しいB先生は特に怒りに燃えただろう。
列車は走り出し、私たちが乗った機関車には誰も近づけない。
楽しかるべき修学旅行列車は、
逸脱した二人の少年とやや困った機関士と、先生の怒りと生徒たちの緊張を乗せて、長い垰を走ったと思う。
ようやく停車して席に戻ると説教が待っていた。
私たちは愉快犯でなく、確信犯として扱われたに違いない。
A君がくしくもトラウマになったと言ったのは、人格まで攻撃されたからだろう。
行ったり来たりの反すうの結果、次の答は以下のようになった。
疑問2、何故私はA君のことをすっかり忘れていたのだろう。
→彼に掛けた迷惑や、彼の受けたひどい叱責ショックを早く忘れたい、と願い続けた。
疑問3.何故A君だけ強いトラウマを生じたのだろう。
→二人の鋭敏さの違いもあろうが、どうしても私には激しく叱責された記憶がよみがえらない。
学年は2クラスで担任が二人、A君が言ったように彼は厳しいB先生に、もしかしたら私は幾分温情のC先生の説教を受けた可能性がある。
となるとこの件でA君と私では、受けて残ったものが少し違っていたのかもしれない。
私にトラウマらしきものがあったとしたら、
「彼を共犯者に引きずり込み傷つかせた事への恨悔」しかない。
半年後私たちは同じ高校へ進学し、クラスは別々になった。
それから2年経って私は結核に悩まされ、忘れたい事件は病に取って代わられた。
一年の留年と浪人の後、病が癒えて大学に進み、様々な時が過ぎ、願い通りに相手の名前を忘れていった。
これに対して正直なA君は健康的にトラウマと向き合い見事に克服したのではないのか。
人間は忘れたいことを忘れる、と聞いたことがある。
いずれにしても60年前のことなので風化はやむを得ない。
しかし芯ぐらいは残っているのではないか。
今夏の同級会で会ったらとにかくA君に謝ってみたい、彼はどんなことを述べるだろう。
鉄ちゃんというわけではないけれどその3 60年前の修学旅行の逸脱。
1956年(昭和31年)10月、中学二年生の私たちは関西旅行に行った。
行き高田発5:45→19:37京都着、帰り大阪発20:12→翌日9:08高田着と「修学旅行のしおり」にある。
当時の北陸本線は蒸気機関車で、片道13~14時間かかっている。
ところで、私が通った中学校は新潟大学教育学部付属高田中学校という長い名前の学校だった。
学業と品行、それに戦後らしい自由さの側面も重んじられていた。
品行で言えば、学内に「風紀委員会」が、さらに「懲罰委員会」まであった。
ある新任教師は着任の挨拶で「この学校に来て大変驚いたことがある、
懲罰委員会という恐ろしいものがあることだ」、と嘆くように語った。
そうかと思えば、「二十四の瞳」だったか映画鑑賞の時は、
映画館までの道のりを男女手をつないで歩くように言われた。
二年生秋の修学旅行は、何事も一生懸命な学校の最も重要な行事だったにちがいない。
今見る旅行のしおりには、詳しい見学先の説明と厳格な行動規律が沢山並んでいる。
「班ごとに行動せよ」は今でもどこでも変わりないことだろう。
その大事な旅行の車中で、私は早々にある級友と大目玉をくらう行動をした。
それなのに時が経ち、いつしか逸脱の相手が誰だったか、思い出せなくなっていた。
ところが2007年6月樹下美術館を開館して間もなく、高名な外科医になっていたA君が訪ねてきた。
「中学校の修学旅行の途中で機関車に乗ってしまい、物凄く怒られた。誰かと一緒だったと思うが君じゃなかった?」
と言った。
忘れもしない私も誰かと私たちの列車を牽引する蒸気機関車に乗った。
しかし誰とだったのか、すっかり忘れていたのだ。
まさかA君とだったとは。
「戻って延々と怒られたよな、その時の説教は後々までトラウマになったほどだ」とA君は言った。
修学旅行の列車は敦賀かその先の駅で長時間停車した。
退屈していた私と誰かはホームに降りて先頭の機関車を見に行った。
そこで乗っみたいと、機関士に訊いたのだろう。
機関士は乗せてくれ、あまつさえ発車後も同乗させてくれたのだ。
区間は険しい山中、思ったより広い室内で機関士たちは忙しかった。
そんな所へ生徒二人が入ってきて迷惑ではなかったのか。
それでも大きなシャベルで何度か石炭をくべさせてもらった。
トンネルをくぐって大いに煙を浴び、石炭ガラが目に入った。
ようやく停車した駅で降り、ある種ほうほうの体で席へ戻った。
顔はススだらけ、石炭ガラに悩まされた目は真っ赤だったと思う。
どうしたんだ、みんなで探していたんだぞ、級友たちの声が聞こえるようだ。
無理も無い、班が異なる生徒が二人車内から消えてしまったのだから。
事故や駅への置き去りなど真剣に心配されたことだろう。
A君は特にB先生から激しく叱責されたという。
不思議なことだが、私はそれほど強い叱責の記憶がない。
鈍感だったのか、あるいは幾分優しいC先生の説教だったのか。
A君がトラウマになるほど叱られたと聞いて、非常に気の毒に思った。
もしかして全て私が言い出したのではと、自責の念まで交錯した。
不思議なのは、あれだけのことをしたのに相手のことを忘れてしまっていたことだ。
「君と一緒に機関車に乗ったような気がする」
懐かしい級友の突然の一言は、疑問を一瞬に晴らした。
60年前の共犯者がA君で良かった。しかも名医になったのは見事なトラウマ返しではないか。
「同級生が美術館をやるのを誇りに思う」と彼は言った。
今夏久し振りに開催される同級会の知らせが届いている。
今から楽しみだ。
ちなみに、「修学旅行のしおり」に、一升五合の米の持参、お小遣い800円などとあった。
〝出来るだけ標準語を使うように努力しよう〟
〝ニックネームは言わないこと〟などがしおりに書かれている。
硬い八つ橋と抹茶の修学旅行みやげ。
先日京都へ修学旅行に行った中学二年生の孫がお土産を持って来てくれた。
八ッ橋と小山園のお抹茶だった。
八ッ橋は私の好きな硬い方で、なんていい娘なんだろう。
ちゃんとした抹茶といい、今の生徒さん達のお小遣いはいくら位なのかな。
その昔私の中学二年生の秋に就学旅行に行った。
帰路の夜行列車泊も入れて4泊5日、関西の十数カ所の社寺を回った。
レポートもあり、一応真剣に見たので思い出は疲れの中でぼんやりしている。
京都の宿「高田屋旅館」に舞妓さんが来て祇園小唄を舞った。
その唄をいいなあ、と思って2番まで覚えた。
ニッキが香るパリパリした八つ橋は今でも好物。
次回は60年前の私たちの修学旅行に触れてみたいと思います。
潟町小学校分校のクラス会 同級生たちはみなきれいな字を書いていた。
本日二日続きの好天に小三まで一緒だった1948年入学、潟町小学校分校のクラス会があった。
地元に残った少人数が集まっているので、何とか毎年続いている。
ことしは15人が潟町駅に集合して送迎バスに乗り、日本スキー発祥の地・金谷山の「対米館」へ向かった。
すっかりきれいになっていた潟町駅の待合室にあったステンドグラス。
人魚伝説の駅に合っている。
対米館到着後、短時間の金谷山は早春散策。
日本にスキーを伝えたオーストリアの軍人レルヒ少佐の像。
私も含め皆初めて見たと思われる。
部屋にあった上越市出身、1936年・第三回芥川賞受賞作家小田嶽夫の色紙。
帳場にあったレルヒ少佐自筆の油彩。
故国の冬であろう、雪山の輝きが大変美しく、ふる里への愛情が伝わる。
途中でこの度の出欠通知ハガキが回された。
伝言の記入もあったが何より驚いたのは、みな字が上手だということだった。
上手な書字は社会で如何に懸命に頑張られたかを物語るようでじんと来た。
毎年のささやかな集まりは本当に何気なくて良い。
新幹線は〝第三潮流〟 観光客と旅人 そして樹下美術館。
北陸新幹線が開業して一週間、一昨日は上越妙高駅とはくたか号を見た。
列車外観と駅はかつて見た新幹線のどれよりもはるかに洗練されていた。
そのため輸出用のモデルにもなっているのでは、とまで思った。
あまりに立派で自分が恥ずかしくなったほどだった。
これで好むと好まざるを問わず当地も文化、文明の最先端と関わることになった。
乗るのも、迎えるのも相応の理解と認識が求められよう。
間違いなく信越、北陸地方に〝第三潮流〟(最後ののうねりが)が来たのだ。
(※最終潮流→第三潮流 3月22日に変更。新幹線の延伸を、戦後復興→高度経済成長期に次ぐ第三の文化経済潮流としました)
それに付いて行けるか押し流されて終わるか、北陸新幹線の第2ラウンドが始まる。
通勤のほかに新たな人の出入りも考えられる。
旅行者と言えば観光客と旅人の二つのニュアンスがあろう。
観光客は大小のツアーでメジャーなスポットを回る。
旅人はおもに一人旅、あるいは二人などで旅情に任せて気ままに歩く。
観光客は目立つが旅人も無視できないカテゴリーにちがいない。
当地においても場所によって訪ね方に違いを生じるような気がする。
妙高市の山並みの風光は旅人、巨大リゾートやスキーは観光。
上越市の町並みと里は旅人、花見・蓮・謙信公・佐渡は観光と言う風に。
当然これらは一概に分けられるものではないし、ミックスもあろう。
それでも伝え方や迎え方に違いと工夫が必要ではないだろうか。
ちなみに樹下美術館は上越妙高駅から遠隔の田園に位置している。
越後トキメキ鉄道やほくほく線、あるいは在来の信越線の乗り継ぎは旅人向きだ。
いつかそれらを利用してやって来られる人を迎えることが出来れば、とても嬉しい。
北陸新幹線の上越妙高駅で「はくたか」を見た。
午後休診日の本日、夕刻近くに北陸新幹線の上越妙高駅を見に行った。
出来たての駅は汚れ一つ無い。
ホームは清潔なホワイト系、通路や広場、待合室や売店などはウッディにコントラストされている。
上下のはくたかを見たが、ピカピカスベスベで魅力的だった。
入線してきた上り(東京方面)はくたか.。
ほくほく線(北越急行)では越後湯沢方面の「はくたか」は下りと呼ばれていた。
運営会社の拠点が金沢市のため一般に考えられる上り下りが逆だった(途中で知りびっくりしました)。
あの「はくたか」が今ここに。
はくたかに付いていたシンボルマーク「JR EAST JAPAN RAILWAY COMPANY」はJR東でE7系。
「JR WEST JAPAN RAILWAY COMPANY」ならJR.西でE7系
形式のE7、W7両系は所有する東西JRの違いだけで、実際の様式は同じ。
下り金沢行きはくたかの最後尾から(北越急行では上り)。
あまり考えつかない配色だが、ブルーとカッパー(銅色)は意外な好印象を受けた。
雪国のさわやかな青空と銅色の和(なごみ)感が確かに伝わる。
ただ期待していた出発メロディ「夏は来ぬ」は、列車の動力音に消されてしっかりと聞こえなかった。
とても残念である。
さてふんだんに使われている駅舎のガラスは手入れを怠るとすぐに汚れる。
手抜きはすぐガラスに現れるので、大変だと思うがどうか根気よく磨き続けてほしい。
もう一つ、駐車場は拡張されるのだろうか、ぎりぎりだったので週末が心配される。
ほかに工事中の場所があればいいのだが。
本日来てみてまだ異国の錯覚を受ける。
速達でなくても構わないが、出来れば早く乗ってみたいと思った。
(旧はくたかと涙ながらにお別れしたばかりなのに)
これからが本番、もう3回目の出張という知り合いに出会った。
早春の庭 上越に新幹線が走るとは未だ信じられない。
うっかりストーブを消したままで急に寒さに気づく。
風邪に気を付けなくては。
そんな寒暖の季節、以下のような樹下美術館の花はみなけなげです。
先日は庭だけご覧になった方がいらっしゃいました。
歓迎です、是非可愛いクリスマスローズやトサミズキを見てやってください。
さて、まったく追いつけない我が家の北陸新幹線ブーム。
先日電気屋さんから頂いた富山のお菓子屋さんのパッケージは良く出来ていました。
実は開業の日に、発車チャイムくらい聞こうと新駅に向かってみたのですが駐車場にも入れずに帰って来ました。
本来の目的と少々違うような気もしましたが、イベントというのは凄いものですね。
明日午後の休診を利用して駅と列車を見て、ぜひとも「夏は来ぬ」のチャイムを聴いてみたいと思っています。
その前に、ちゃんとホームまで行けるか心配です。
出来れば轟音と共に通過するであろう「かがやき」の迫力とスピード感も期待しています。
新幹線が、それもピカピカの最新型が上越を走るとはいまだに信じられない感じです。
何気ない夕暮れの贈り物 佐々木忠さんのギター演奏会。
本日火曜日は樹下美術館の休館日。
晴天、無風、20℃にもなった暖かさ、三拍子揃った良い日の休館は勿体なかった。
すっかり日が長くなり夕陽が楽しめるようになった。
一見何もない夕暮れの四ツ屋浜。
しかし、夕もやの光があり、果てしない大気があり、ゆっくり過ぎる時間があり、
なんだかんだといいながら自分がいる。
ふとした時間でも中身は十分だ。
ルネッサンス、バッハ、佐々木氏への献呈曲、そして浜辺の歌まで。
ドイツの音楽大学教授として多くの演奏者を育てられた佐々木氏。
ギター本場の音色が樹下美術館のすみずみまで美しく響くことでしょう。
〝お申し込みはお電話 025-530-4155 でお待ち致しています〟
どうか良い明日でありますように。
鉄ちゃんというわけではないけれどその2 昭和34年9月8日の三等寝台券。
私の切手帳に二枚の寝台券が残っている。
昭和34年(1959年)9月、高校三年生の夏休みが終わったばかりという時期、父と上京した時のものだ。
上京の目的は、父の母校の大学病院へ行き、前年の春に見つかった私の肺結核を手術するか否かの判断を仰ぐためだった。
続けていた服薬と切り替えた注射薬カナマイシンの効果を問うことでもあった。
昭和34年9月8日、21時42分直江津発の三等寝台105、106番下段の特殊補充券。
父とは向かい合っていたと思う。
よく眠れずに上野に到着したのではなかったか。
非常に苦手だった父と一緒の上京。しかしそれが苦痛だった記憶が無く、道中の父は優しかったのかもしれない。
早朝上野からの国電は空いていてパラパラと居る通勤客はとても疲れているように見えた。
目黒で目蒲線に乗り換え、大岡山で降りた。
姉が居る石川町の小さな家に向かったが、朝日の道を歩きながら「9月になっても暑い」というような会話をしたように思う。
翌日だったか、信濃町の病院で断層X線撮影などの検査をした。
仕事がある父は早く帰った。
検査の結果は手術の必要は無く、現行の治療続行で良いという結論だった。
日本が世界に誇ることになる新薬カナマイシンの効果が出ていたのだ。
この時私は一才年上の従兄弟と後楽園球場で王、長島の試合を見るなどして一週間も滞在した。
決定の経緯はよく分からないが、残りの2,3学期を休学して治療に専念、来春もう一度三年生をやり直すことになった。
このことで焦るばかりだった気持ちが落ち着くのを感じた。
一才年下の弟と同学年になることなどの我慢は仕方が無かった。
ただ美しい英語教師A先生の許へさらに一年通えることだけは嬉しかった。
今年の始まりは晴天に恵まれた。
今日今年の開館日は良く晴れました。
およそ閑散で始まる樹下美術館ですが、本日30数名のお客様は近年の記録でした。
窓外の水盤には雀の群も飛来して遊んで行きました。
展示やお渡ししている短い作品解説も好評で、皆様には賑やかにして頂きました。
明日、樹下美術館は本年の開館です。
長らくお待たせ致してましたが、樹下美術館は明日から今年の開館です。
今年の倉石隆は「倉石隆の男性」、齋藤三郎(陶齋)は「陶齋の鉄絵と色絵」の展示です。
●「倉石隆の男性」:氏の描く男性は老人や子ども以外はおよそもじもじしたり、沈黙したり、寂しそうだったり、ともすれば滑稽です。美しく描くより本物を描きたい、という倉石氏。このような描き方は氏の骨頂でありましょう。「自画自賛」を嫌った氏独特のダンディズムを感じますが、如何でしょうか。
●「陶齋の鉄絵と色絵」:鉄を主成分とするうわぐすりや顔料を用いて製作されるのが鉄絵です。窯炊きの条件や鉄の濃度などで黒、茶、緑、黄色、赤などに発色します。一見地味ですが、器は落ち着いた風合いを見せます。一方色絵は多色を用いて絵付けをしますが、陶齋の色絵は華美に走らず上品です。氏は様々な技法を自在に駆使しました。
展示作業を終え皆様に差し上げる資料を刷り、カフェや庭はすっかり整いました。
カフェだけのご利用もOKです。
クリスマスローズの「ニゲル」という種類です。初めは真っ白ですが、次第に赤っぽく色が変わります。
この種類だけの庭もいいだろうなあ、と思っています。
雪が溶けたばかりですが早くも庭のヤブコウジの端でイチゲが咲き始めました。
カフェの正面の木立の中にクリスマスローズを移植したり新たに植えたりしました。
まだ寒い庭ながら、きっと目を楽しませてくれることでしょう。
どうか本年もお楽しみに。
何卒宜しくお願い申し上げます。
はくたかは雨降る夜に立ち去りぬ 渡り鳥なら帰れるものを。
ラストランとなる22時7分着発金沢行きほくほく線(北越急行)特急「はくたか26号」を直江津駅で見送って来た。
昨日まで何をすればいいか決めてなかったがやはり行った。
大勢のファンが集まり、ありがとう、さよならの声の中、混乱もなく静かな別れだった。
現場では、任務を終了しJR西日本側と交替して降りた乗務員さんたちを撮ろうと決めた。
出発の時、皆さんは敬礼し、走り出した最後のはくたかに手を振った。
白い手袋が悲しく見えて目頭が熱くなった。
〝皆さん、何度も何度もお世話になりました〟
拙歌) はくたかは雨降る夜に立ち去りぬ 渡り鳥なら帰れるものを
ああ、そして伝統と栄光のJR(旧国鉄)直江津駅は本日で終了してしまった。構内のモニターに出ていた知らせ。子供の頃から思い出がありすぎて悲しい。
人との別れ以外こんな別れがあろうとは。
これからは元気を出して夕雲、夏雲、秋雲のほくほく線電車を撮ってみたり、
新しいえちごトキメキ鉄道や北陸新幹線に馴染めるようにしたい。
ほくほく線「はくたか」さよならの前日お弁当をもって見に行った。
明日で特急「はくたか」は、ほくほく線(北越急行)の運行を終える。
午後休診日の夕刻、ラストランを翌日に控え、お弁当を持って(本日は妻が積極的)沿線の田んぼへ出かけた。
三日続きの寒波で外は寒く、いずれも列車通過の度に窓を開けて撮った。
お店で買ったお弁当などを手作りの簡単な専用プレートに広げて列車を待つ。
およそ10分後、くびき駅方面がらはくたか18号金沢行きが現れる。
みるみる近づいて通過するはくたか18号。
寒波の為積雪があり、極地のような写真になりました。
高架橋の反対側へ出て18時半ころに下り21号を撮る。かろうじて車窓の灯が写った。
夕刻の1時間半、普通電車も見ながら3本のはくたかを楽しんだ。
遠くに列車の灯が見えた時、妻は涙が出そうになったと言った。
以下は過去のほくほく線を見ながらのお弁当。こんなことをしていたのは貧乏ヒマなしの私たちくらいなものでしょう。
しかしながら身近に味わえた楽しい旅行気分でした。
●一回目 2012年7月16日
●二回目 2013年6月4日
●三回目 2014年6月2日
いよいよ明日は、在来線日本最速特急「ほくほく線はくたか」さよならの日です。
どうすればいいのか、考えが浮かびません。
自然対人、人対人の災害 あと二日の「はくたか」は雪の中。
昨日この場に〝人間はあらゆる面で自然に依存しているが、自然は人間を相手にしていない〟と書かせて頂いた。
災害をもたらす地殻や気象変動の無慈悲な一面は、一方的な関係を完膚なきまで知らしめる。
だがどんな仕打ちがあろうとも、
自然(地球環境)は私たちを誕生させ糧を与え楽しませてくれる親のごときものだ。
私たちはその膝に乗り背中に抱きつき髪を嗅ぎ母のごとく慕い親しむ。
そんな親同然のものが突如私たち向けて圧倒的な力で攻撃に転じることがある。
まさか〝これを越えよ〟という試練の親心ではあるまい。
〝慢心をいさめよ〟という教訓でもあるまい。
厳しさと強大さに対してただ畏怖し、できればそこに学び懐かしむほかないのである。
3/11から5年目となった。あらためて地震津波と原発事故の違いを感じる。
前者は自然対人の関係だが、後者の因果は人の所業が関わっている。
放射線災害の特殊事情から、今もって10万もの人が4年経っても郷里を追われたままだ。
慕わしい親である海山を汚染させ人を蹴散らした。
歴史上恥ずべき事実である。
さらに、この程度の放射線などは怖くないから早く戻ればいい、と言う一群の人々。
冷酷な上から目線と他人ごと感覚には被災同胞への洞察も何もない。
利害が絡む人為災害のこのような側面もまことに悲しいのである。
ところで事故後の「避難計画」が原発再開の条件の一つらしいが、本気なのだろうか。
「さしあたりの逃げ方」の事のようだが、検討するほどに複雑膨大で幻と闘っているように見える。
しかも逃げた後からが大変なのに、「生活再建計画」や「帰還計画]、同時に一帯の「処理や復旧計画」などについて基本的な考えも出ていない。
重い責任当事者の異様な安易さである。
そもそも原発を稼働させるために「逃げる計画」が必要だという事自体、悪夢に近い。
近くの避難場所でなく、何十キロも遠くへ、ともすればふる里を捨てて逃げなければならないのである。
地域の将来にこんな惨めで愚かなことを想定しなければならないとは、
一体何のために生きて税を払ってきたのだろう。
もう根本から考え直すべきであろう。
この國の知恵と力の全てを出して舵を切れば、真に安心な将来はきっと実現出来ると思う。
あと二日のほくほく線「はくたか15号」。
施設の帰り道、強風と雪で遅れたがしっかり現れた。
大荒れは春と冬の内輪もめ?
春の気配を喜んでいたさなか突然のように寒波の嵐に見舞われた。
午後外回りのころの外気温は2℃、そこへこれでもかと冷たい風が吹きつける。
現在20時30分をまわったところだが、風は弱まる気配がなく明日も吹くらしい。
私たちはあらゆる面で自然に依存している
だが自然は独自で何ひとつ人間を相手にしていない
本日の大荒れなどは春と冬の内輪もめなのか
鉄ちゃんというわけではないけれどその1 懐かしいはくたか特急券。
このブログの欲張りなカテゴリーに「ほくほく線特急「はくたか」&乗り物」があります。
書き始めた頃に、このようなカテゴリーが出来るとは思ってもみませんでした。
それが2012年4月4日の記事からほくほく線、特にはくたかに興味を持つようになり、
以後はくたか廃止が迫るにつれ、一種とりこになり撮ったり書いたりを続けました。
いわゆる「鉄ちゃん」という方達は車両や車体の形式やそれらの変遷などに詳しく、写真もしっかり撮られます。
それに比べて私はそのようなことに疎く、夕刻の空や雲、あるいは四季の表情をはくたかに重ねて満足していました。
昨年秋、田んぼで東京から来たという熱心な鉄道ファンの若者に私のゆるい写真のことを話しますと、
「情景写真としていいと思いますよ」と言われました。
なるほどと、安心させて頂いた次第です。
ところで中学生時代から何とか残っている切手帳があります。
切手は学生時代に売ってお小遣いにしてしまいましたが、一緒に入れていた数十枚の切符が残りました。
先日何十年振りにそれらが入っている小さな箱をあけました。
中に「はくたか」の特急券が一枚ありましたので、大いに驚きかつ喜びました。
中学時代からある切手帳の外観。中はぼろぼろ。
縦横19,6×14㎝
思い出につながるものもあった切符。
厚い切符などが入ったために余計傷みました。
灯台もと暗し、昭和49年(1974年)10月28日(32才)発行の「はくたか」特急券。
直江津18時10分発上野行、前日の地元潟町駅発行でした。
電話で直江津駅に空席を確認後、手書きとハンコで記入し最後にガチャと日付印字器を通すなど、
色々手を掛けて発券されたのだろう。
パーキンソン病だった父はこの年2回だったか入院しました。切符はそのうちの1回に際して急遽帰郷した時の帰りだと思われます。
上野には深夜に到着したことでしょう。翌年5月、勤務していた大学病院を辞めて家に入るきっかけとなった出来事だったと振り返られます。
次回は更にさかのぼって昭和34年(1959年)9月、高校三年生の時、父とともに上京した際の寝台券と、それにまつわる事を書ければと思っています。
頸城野を行くほくほく線(北越急行)「はくたか」最後の日曜日は晴れた。
いよいよ北越急行の特急「はくたか」の終了が近づいた。
本日3月8日は最後の日曜日となった。
特にほくほく線である六日町-犀潟間は最大時速160㎞の在来線国内最速のスピードで走った。
疾走する栄光の「はくたか」を広角で撮影できる頸城野の水田に、この日多くの鉄道ファンの姿があった。
一列車行く度に終わりが近づく。
本日午後は次第に晴れ、「はくたか」最後の日曜日にふさわしくなった。
あと6日もすれば新たに北陸新幹線が開業し場所と姿を変えた「はくたか」が走る。
だが何でも新しいものが良いとはすぐには言えない。
親しんだものとの別れは、心ゆくまでその名残を惜しまなければならない。
悩ましい芝生の苔。
樹下美術館を取り巻く近景としての芝生は目に優しい。
特にカフェでは芝越しに草花や樹木を見るので目が休まるように感じられる。
ところで建物を囲む北側の芝生に随分苔(主にハエゴケ)が進出してきている。
特に樹木がある場所は芝の下の地面が殆ど苔で被われる状態になっている。
庭全体に言えることだが、今冬雪が少なかったのも苔拡大の一因ではないだろうか。
そこで本日、試しにピンセットを持ち出して芝生の苔をつまみ取ってみた。
取れるのだが40分行ってこの程度。
散らばって残った苔はすぐにまた広がりそうだ。
ピンセット作業は少しもはかどらず、また殆ど動かないので体が冷えて中止した。
知り合いの園芸屋さんに電話で助言を求めた所、水はけを良くするために樹木の回りに土を盛ることも方法だとお聞きした。
確かに苔は木の周囲ほど多く、しかも木の回りは幾分へこんでいる。
十分な肥料を与えることも良いようだが、まず土を盛ることから試してみたい。
所変わって、カフェ前の芝生は西南向きで樹木も無く、かつ傾斜が付いていて一切苔は無い。
苔の場所はカフェと正反対の条件になっている。
つまり苔に適しているとばしょと言える。
いっそうここだけ苔にしようか?悩ましい。
ピンセットのあと草花の移植と施肥を行った。
本日、男性スタッフがすっかり雪囲いを取り去り、分厚い落ち葉を処理してくれた。
間もなく今年の開館!
今年の展示から陶齋の「搔き落とし(搔落)」と「蝋抜き(蝋抜)」。
本日は陶芸の絵付け方法のうち、筆で書き付けたものをそのまま焼くのではない技法を二つご紹介致します。
このような手法は幾つかありますが、陶齋が好んで用いたのは「搔き落とし(搔落)」と「蝋抜き(蝋抜)」でした。
【搔き落とし(搔落)】
まず形をつくった生地(きじ:もとになる土で形作った器)の上から白あるいは黒など泥水状の化粧土を掛けます。化粧土が渇いたら表面をクギやハケ状の道具で削り落として模様を描き出す手法です。
こうして焼きますと削り残した部分が浮かび版画の風合をもった作品になります。
今年展示の「搔落牡丹文水指(かきおとし ぼたんもん みずさし)」 高さ19,2㎝
文は模様と考えてください。
鉄を含んだ化粧土が黒いぼたん模様として焼き上っています。
【蝋抜き(蝋抜)】
生地の器を作り、そこへ溶かした蝋で模様を描きます。その上から濃い化粧土を全体に掛けますと蝋の模様部分がはじかれます。この後焼きますと蝋は燃焼消失し生地が模様として浮かびます。こちらは染色における臈纈染め(ろうけつぞめ)の手順によくにていますのでおっとりした趣があります。
同じく展示の「鉄絵蝋抜四弁花文鉢(てつえ ろうぬき しべんかもん はち)」 幅27,2㎝
黒っぽい鉄の部分の中で、蝋で描いた部分が白色系の模様として焼き上がりました。
今年の陶齋の展示は「鉄絵と色絵」です。華やかな色絵に較べ単色系の地味な鉄絵作品。
しかし陶齋は「搔き落とし」や「蝋抜き」の技法を駆使して、器に独特の味わい持たせました。
絵がうまく、デザインや構図に優れた陶齋の搔き落としや蝋抜きは、
色絵とひと味ちがう陶齋ワールドとして見応えがあります。
健診を受けた ああ旅情であれば。
本日、毎年妻共に受けているドック健診があった。
詳しい結果は後日になるが体型に関する数値はさらに改善されていた。
BMI20,2、体脂肪率16%台は3年前には22,2と21,1%だった。
階段昇降に加え、昨年夏から自分なりの筋トレや軽めのダンベル(1㎏)体操を続けていたのが良かったようだ。
これらは健康のため、同じ服を着るため、時折のゴルフの成績向上を願ってのこと。
ちなみに、昨年秋練習もしないのに最後のゴルフで突然100を切ったのはダンベルのお陰だと思った。
さて健診の帰りに早い夕食を回り寿司で食べた。
それから写真を撮りながら帰って来た。
以下はその写真です。
ホームセンターで展示備品、歯ブラシ、クルマユリの球根を買った。
人生は色々な事がある。出来れば〝ああ無情〟ではなく〝ああ旅情〟であれば。
強風の日の虹 普通は簡単なようで難しくまた眩しい。
本日当地一帯は一日中風に見舞われた。
風は強く、上越では最大25メートル(恐らく沿岸部)に達した模様。
午後は特別養護老人ホーム・しおさいの里に出務したが、入所者ご本人ご家族へのスタッフの対応は心こもり、いつも敬服を禁じ得ない。
また管理栄養士さんもこまやかな対応をされるので安心だ。
そんな日の施設からの帰りに虹が出たので海へ寄った。
夕刻に近づくにつれて虹は高くかかる。午後3時前の虹は随分低い位置に出ていた。
さておばあちゃん思いの孫さんがいる。高校時代はバスケットで部で頑張り、卒業して社会人になった。
家に帰ると「おばあちゃん、今日はどうだった」と昔から毎日尋ねるという。
働き者で男前なので友達という彼女が出来て、その娘さんはまた勉強家で美人。
家で一緒にごはんを食べるようになったが、
娘さんは自分の話をする一方、おばあちゃんの話も良く聞く。
「実の娘より可愛い」とおばあちゃんは嬉しそうに言う。
普通というのは簡単なようで難しくまた眩しい。
2015年の開館に向けて。
本日午後、来る15日の開館を前に予定作品の取り出しと庭仕事がありました。
寒くはないが暖かくもなかった曇り空、5名の女性達が出てはかどりました。
また、くびき野NPOサポートセンターからお二人が来られ、今年の予定などのインタビューがありました。
3年前のことを覚えておられ、「あの時も図録を出すので機関誌への投稿はできない、とおっしゃいましたね」と非常に鋭い突っ込みを頂戴しました。
本当に今年こそなので、どうかどうかお許しください。
いつもくびき野NPOサポートセンターさんの熱意には心動かされるのです。
「いまあるものをいっそう磨く」
「お客様には、お迎え以上に丁寧な見送りを」
の目標と意味などをお話してみた次第です。
さて今年の展示です。
齋藤三郎(陶芸)は「鉄絵と色絵」、倉石隆(絵画)は「倉石隆の男性」です。
陶芸はこれまでの作品に幾つかの新たなものを交えて「鉄絵と色絵」を半々ずつ展示致します。
20作品で44ピース(食器などは一作品で5,6点のピースがありますため)展示です。
「落ち着きVS華やぎ」、「渋さVS明るさ」の対比や用途などを思い巡らせながら、どうぞお楽しみください。
絵画はこれまでの作品の中から男性を描いたものを7点架けます。
倉石氏の男性は子供と老人以外は、大抵もじもじしたり、押し黙ったり、滑稽だったりしています。
「美しさより本物」を意識し、「自画自賛を嫌った」倉石氏ならではの骨頂とダンディズムではないでしょうか。
4月末にに倉石氏の縁者さんが「油彩 男の像」を運んで来られ、5月から展示の予定です。
カリカチュア風(漫画的)なとても面白い作品です、どうぞそちらもご期待下さい。
国営越後丘陵公園のクリスマスローズフェスタ シナトラの「コートにすみれを」。
カレンダーの春一日目の今日、3月1日はそぼ降る雨の日曜日。
長岡市の国営越後丘陵公園のクリスマスローズフェスタへ行って見た。
初めて行った同公園と一帯の長岡ニュータウンの開発規模の大きさに目を見張らされた。
雪は場所によって異なるがやや奥まったところにはまだゆうに50~60㎝の積雪がある。。
会場にはクリスマスローズを使ったアレンジメントや押し花、分類された展示や育て方 そして即売のコーナーがあった。
鉢植えもいいが、地植えの雪中で花芽を伸ばし雪消え後早々に開花するクリスマスローズは早春の貴重な花だ。
本日の会場の賑わいを見ると人気の高さがわかる。
クリスマスローズを庭に植えて20年、ようやくどんな風に育てればいいか多少分かってきた。
ほかの様々な事で最近になって「ああなるほど」、「ああそうだったのか」と思うことが少なくない。
さて話は変わり、以下の「Violets For Your Furs(コートにすみれを)」は1940から42年当時のトミー・ドーシー楽団で歌う若きフランクシナトラです。
シナトラの歌声は甘く滑らかで、トミー・ドーシーのトロンボーンも歌声のようです。
マンハッタンの冬の日、あなたのコートにつけるスミレを買った。
その時、雪降る街が手品のように春に変わった。
貴方は微笑み私たちは恋に落ちた。
(以上あちこちをかいつまんだ意訳です。すみれがもたらした春、素敵です)
- 花頭窓、二十三夜塔、庚申塔、社寺
- 樹下だより
- 齋藤三郎(陶齋)
- 倉石隆
- 小山作之助・夏は来ぬ
- 聴老(お年寄り&昔の話)
- 医療・保健・福祉・新型コロナウイルス
- 花鳥・庭・生き物
- 空・海・気象
- 頸城野点景
- ほくほく線電車&乗り物
- 社会・政治・環境
- 明け暮れ 我が家 お出かけ
- 文化・美術・音楽・本・映画・スポーツ
- 食・飲・茶・器
- 拙(歌、句、文)
- こども
- 館長の作品。
- かって認知症だった人、晩年の「ありがとう」は「好き」だった。
- 妙高市はいもり池の近く「ギャラリー峨々」を訪ねた。樹下美術館も紅葉。
- 再び良寛椿の苗。
- 1本の木にキンカンとカラタチの実が。
- 秋晴れの日のゴルフ。
- カフェのノート、スケッチブックの絵、ブログ展その3。
- 本日ジョケラさん初日。
- 明日からジョケラさんの展示会 高宮あけみ展のご来館有り難うございました。
- 別れ。
- カフェのノート、スケッチブックの絵、ブログ展その2。
- 講演会「良寛さんに学ぶ」が無事終了した。
- カフェのノート、スケッチブックの絵、ブログ展その1。
- 来たる11月7日からラッセル・ジョケラさんの展示会 晩秋の花 近隣のコハクチョウ
- 先週末の種々。
- 高田高等学校創立150周年の秋 いたくら桜園 近隣の秋。
- 「ラッセル・ジョケラ木工展」 可愛いお子さんとおじいちゃん。
- 本日今年最後の同業ゴルフ。
- 今夜のコンサート カッチーニの「アヴェ・マリア」。
- 信州は須坂で江戸時代の料理を食べる 満月、私達の奇跡。
- 失った1枚 栗。
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