戦没者追悼 死者への最後の救済。

2013年8月15日(木曜日)

5日間のお盆休みが終わる。残暑ますます厳しく各地はまさに災害の様相を呈している。

休みの間、ある朝ほぼ同じ時刻にお二人の高齢者の看取りがあった。十分な介護をされたご家族は落ち着いておられ、長く親切にされたご本人も幸せだったのでは、と思った。ほかに蜂に刺された方、高度な脱水で入院して頂いた方、いずれも若い人だった。

休みの間、図録の原稿改訂に集中し、またマツ婦人が編んだ小山作之助遺稿集「国歌 君が代の由来」を読んだ。引き締まってきた図録だが、ある立派な方にお会いした際、〝ぜひ早く作って見せてください〟と言われた。マツさんと「国歌 君が代の由来」の方はそのうち簡単にご案内してみたい。

ほかに来年の個展に向けて描いていた下絵が17枚に達した。しかしまだ介護保険関連の書類などが7,8通も残り、今夜の仕事になっている。

お陰様で珍しく宿題に集中できたが座ってばかりいたので座骨神経痛に悩まされた。しかし昨夜の熟睡でかなり和らぎ、ほっとしている。

夕陽と船夕刻、庭の散水をして渋柿浜漁港に寄ると、夕日を背景に貨物船が直江津港から出港した。

 さて終戦記念日の首相の言葉は、おもに戦没者を追悼する内向きのものだった。私はそれでいいと思った。追悼は死者の生前をしのび、死を悲しむというものである。ただ惜しむらくは、もう一すじ心こめていただければと思った。

家族に厚く育まれ、愛され、学び励んだ若者が遠い戦地で散る。ある者は衰弱の果てに意識朦朧となり、自らの手足に沸いたウジを食べながら死んだ、と看護婦だった母から聞いた。戦没者への追悼は英霊とした後の感謝や慰めだけでは不十分に思われる。

死や戦の悲惨さは普遍かもしれない。しかし彼らは特別な人々である。偽りはなかったのか。人とも思われぬ酷で膨大な死に対し、よしんば公人による心からの詫び一言あれば最後の成仏を得られるのでは。

38年、往診や訪問で多くの家の座敷に戦没された兵士の遺影をみてきた。母が愛した弟も少尉としてレイテで戦死している。戦後68年、まだ遅くはない。もののふといへども道に情はあろう。詫びることは大切な礼であり力にも変わる。隣国との真の友好などは、その後から始まるのかもしれない。

首相が内向きに語れば韓国大統領の言葉も単純だが未来を指向していた。あきらめるのは早い。道のりは遠くともアジアなら温和の質を生かして平和の実を取りに行ける。利益は追求すべきだろうが枯渇も避けられなくなった。平和なくして何が成立するだろう。

平和のために戦の用意をする、こんなことはそのうち時代遅れになろう。

2013年8月
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

▲ このページのTOPへ