南国・西国の小旅行Ⅲ:九大医学部・病院 母への憐憫。

2012年3月22日(木曜日)

19日(日)は二日目、この日から母の若き足跡を訪ねてみる。ホテルの小さな食堂でモーニングを食べ、ハンカチで包んだ遺影をリュックに入れて8時半すぎに宿を出た。

 

母が学んだという九州大学の看護学科(当時は別の呼び名があったらしい)のこと。入学式のこと、級友と本の貸し借り、寄宿舎のしきたり、泣いてばかりいた同級生、満点を取れなかった最終試験、、、、何度も聞いていた。

 

訪ねた朝の構内は静かだった。話のとおり医学部と附属病院は大変立派で広大、旧帝国大学の風格を今に伝えていた。看護学科は現在保健学科に含まれて北東の隅にあった。

  

病院棟
大きな病院
保健学科
看護学部がある保健学科

 

正門(左)
昔からの正門らしき左部分
正門(右)
右部分

看護学校の入学式で母は初めて見る同級生の身なりの良いのに驚く。みな立派な袴を付け、時計をしていた。その中で、自分は自らの母が縫ったつんつるてんの袴で時計も無かったらしい。
 

父の夭折などある種不遇の中、8年間皆勤した高等小学校から看護学校まで主席を通したという。満州で医師の夫(小生の父)と出会う母。終戦後新潟の我が家へ嫁として入るや、「ぐうの音も出ないほどに」姑、小姑たちに押さえ込まれたらしい。ばらばらな作法、風変わりな言い訳、作り話のような話など一部変人扱いを受け、私たちさえある部分そう思うようになった。 

しかしその晩年(80才を過ぎて)、遅きに失したが母の中に“素晴らしい人”が見えるようになった。息子が言うのも可笑しいが、勤勉と読書、超絶な記憶力、一発で人を見抜く眼力など、、、。私たちの方こそ見抜かれていたのか?私は自分を恥じ、母へ強い憐憫を抱くようになった。

 

恥ずかしながら平成16年から4年間、当地の医師会長職をけがした。260人の医師たちは個人としてみな優しいが、当然ながら団体活動となると時に面倒な側面を見せる。医師会は自身の問題とともに公共として常に複数の課題を抱えている。
会員に抵抗されて動きが止まれば地域の水準は遅れる。その前4年の副会長時代も含めて、地域水準などを意識させられると非常にストレスを感じた。
不思議なことだったが、行き詰まりそうになると母を構いたくなった。車に乗せ、散歩をし、昔話を聞く、最晩年は車椅子を押した。すると気が休まり、面倒な会議を続ける意欲が沸いた。母をかまうことがストレスに良いなどとは考えてもみなかった。
 

余談が長くなりました。
看護学校の外出は厳しかったようでしたが、一旦外出の際は上掲の門で、「行ってきんしゃい」と守衛さんに言われたようです。

(記載しました母のことは一部当ノート「我が家」に書かせて頂きました、繰り返しをお許しください。)

次は大学を出て10:30頃の地下鉄ー筑紫線でおよそ1時間10分、昼の「虹の松原」を書かせていただきます。

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