2012年3月
お守り。
さる3月19日に母の実家があった佐賀県は鹿島市古枝を訪ねた。その折、近くの立派な神社「祐徳稲荷神社」を参った。同社で患者さんたちのおみやげにと女性には赤の、男性には青いお守りを買った。
当日、在宅の方たちへと考えて50枚ほど用意したが、帰ってから気が変わり外来の皆様にもお配りした。一日で無くなってしまい電話をして沢山送ってもらった。
当地における私の37年間は文字通り皆さんのおかげだ。
今日の暖かさは並大抵ではなかった。午後、車が示した外気温は19度もあった。若者は半ソデだったのでは。ここが温帯であることを思い出した一日だった。
日増しの春。
慌てて冬のあと始末をするより、のんびりとお天気を楽しみたい一日だった。数日前から軒下に入ったスズメは抱卵を始めたのか。順番を待つような風情で一羽が巣を見上げていた。
新堀川沿いの木蓮。 |
新堀川沿いの桜。 |
今日、樹下美術館の近く、新堀川に沿う桜並木の蕾が膨らんできた。白木蓮は待ちきれないほどだった。
午後のデッキ |
一番に開花した庭のクリスマスローズ |
寒くはないが、週末のお天気はくずれそう。春の雨は次々と木の芽、草花を目覚めさせていく。
旅の印象: 花 人 猫舌 田畑 偶然 外人バー。
普段親や故郷について問われれば父親の土地や係累のことを考える。長男として跡を取ればなかば当然なのか。一方鉄路で1000キロはあろう佐賀県の母の故郷は長きにわたり文字通り遠かった。
この旅行で母の生地を、記憶もままならぬ幼児期来はじめて歩いた。また何人かの親族とも会えた。風土と人、自らの血脈には父方とともにもう一つの質量が込められていることを、漠然ながら知らしめられた。
無二の親。しかしその人に近づくようになったのは晩年のわずか十数年だ。短かかったが知り得た分で興味を持ちなんとか母を好きになることが出来た。
親を知るのにこれほど時間がかかるとは。だがそれが可能になるまで長生きしてくれた事や、間に合った自分の幸運にも感謝しなければならないことだろう。
今回の旅行はあまりに急ぎ足、ほとんど一日2食で過ごした。それでも幼年から成人まで若き母を育んだ土地を辿り、聞いていた話に触れることも出来た。努力家だった母と実直な係累、そして力強い風土。短い旅ながら、どこか懐かし気な春風に吹かれ、母の故郷の気を胸一杯吸い込んできた。
これからはそれらを自身に足し直し、残りの人生にいくばくかの膨らみを持たせることが出来れば、有り難い事だと思う。
今回は車窓や見聞など余談を記して旅の記録の最後とさせて頂きたいと思います。
【見て来た花々】
筑肥線の菜の花 同キブシ 同じく手前にナンテン、奥にしだれ梅 |
佐世保への山道でヤブツバキ 同じくアブラチャンとレンタカー 錦帯橋の公園の梅 |
【樹木】
祐徳稲荷のクスノキ |
古枝小学校のキンモクセイと校長と教頭先生 |
さすがに山も庭も常緑広葉樹(照葉樹)が主だった。冬でも緑の山、緑の庭、生活や心持ちにも影響しよう。
【田畑】
母に聞いていた青々とした佐賀県の麦畑 |
佐世保への山道で力強い棚田 |
母はかつて故郷の二毛作を盛んに話していた。そして今回突然現れた棚田、とても強靱な感じだった。
【垣間見た九州の人】
●男性:・きりっとした男前が多く、まめで親切、女性によく気配りしている。
●女性:・活発な美人が多くよく働く。男性をリードしているようだ。
●猫舌:福岡に到着した17日夜、出てチャンポンを食べた。店内は向かいに4人の女子高生と右遠くにOLが一人居た。みなチャンポンを食べている。料理の熱さはちょうど良かった。しかし彼女たちは、麺を箸でとるとしばらく胸元あたりで止めて話などをする。麺を冷ましているらしい。7,8秒するとさらにフーフーしてから食べる。
ほかの子も一様に麺を上げて一旦止め、さらにフーフーして食べる。右端のOLも箸の麺を持ち上げてじっと止めている。それからフーフー、実に根気よく冷ますのである。
まもなく私の隣に若いサラリーマン風の男性が座った。彼もやはり同じようにした。女も男も、お客さんたちが揃って熱心に冷ますのが可笑しかった。これは偶々ではないのでは、と感じるほどだった。
※そういえば母も極端な猫舌だった。しばしば「熱っ!」と言っては口をもごもごさせていた。
●外人バーで猫舌の話:3月18日夕刻、ホテルで尋ねるとすぐ前に外人バーがあると教えられた。私は飲めない口だがせっかくの佐世保なので入った。カウンターの向こうに濃いキャップの静かな外人さんが一人いた。ホステスさんが二人、私は二十代の人と話をした。彼女は若い米兵と結婚しているということ、さわやかな普通のお嬢さんだった。
気になっていた博多のチャンポンの店で見たお客さんたちの猫舌を話した。はじめ不思議そうな顔をして聞いていたが、私があまり言うので、もう一人のホステスさんにそのことを話し始めた。
すると、そう言えば私もするということになってきた。麺類に拘わらず熱いものは大抵一旦箸を上げて冷まし、フーフーして食べると。二人で繰り返し食べる仕草をして、やっぱりフーフーするわねと顔を見合わせて笑った。それから「あなたたちはそうしないの?」と怪訝そうに聞かれた。私は博多のチャンポンを冷ましたりフーフーなどせず、ドンブリから直接口に運んだと言った
母もそうだったが九州の人は猫舌が共通しているのではないか。猫舌は可愛い仕草に見えるから全く直さなくてもいいと思う。
●外人バーで雪の話: 新潟県から来たというとすぐ雪の話になった。ところによって4,5メートルと聞くと彼女たちはびっくりして、携帯をいじっている外人にもそのことを話した。当然ながら二人とも英語が素晴らしい。
彼女達が言うには佐世保に一旦雪が降ればその日は町全体がパニック。坂が多いので車は大混乱し、むしろ誰も乗らなくなる。
それから大人も子ども一日中テンションが上がり、雪だるま作りに熱中する。降った雪を総動員して町の至る所に大小の雪だるまが出来上がるらしい。おもむろに一昨年の暮れに作ったという雪だるまの携帯写真を見せてもらった。なかり砂が付いてはいたが、にんじんの目鼻、頭に黄色のオモチャのバケツが乗っていた。
そんなところで私の一杯のチンザノが終わって店を出た。ワンショット1000円だった。10時?から料金が高くなるらしい。短い時間だったが、昼間あちこちで泣いたのを忘れて楽しいひと時を過ごした。
【偶然】
●カメラ:18日の昼、虹の松原でポケットカメラを落としてしまった。駅に戻って気がつき、探しに行くと広い松林だったがちゃんと見つかった。
●婚姻届け:母の旧宅を探すため戸籍を持参していた。昔の戸籍は字が小さく手書きなので読みにくい。18日夜、たまたま戸籍を見ていたら住所の脇に婚姻届け日が書かれていた。昭和14年3月18日とあり、当日がまさに両親の結婚記念日だった。
●お彼岸のおはぎ:このたびお会いした90半ばになる現実家のおばあさん(母の義妹)はお元気だった。私たちが佐世保に引き揚げた直後の昭和21年3月に10日間ほどお世話になっている。当時結婚三年目だったというその方は、お彼岸ということで、餅を突いておはぎ作った、と話された。
空腹と疲労におはぎ!どんなに嬉しいご馳走だったことだろう。これまで引き揚げた具体的な期日が分からなかったが、まさに三月の今頃だったことも分かった。
【言葉】
●「福祉は地味ばってん堅実だってゆうんよ」。「助言する人がいるなんてうらやましかー」。こんな風に女子高生が話していた。良い方言なら若者たちも自然に使う。言葉に気遣いがこめられ、語感が優しく聞いていると音楽のようだ。上越の方言はどうなのだろう。
●「とっとーと?」 ユーモアがコミュニケーションを和らげる。
よく分からなかった地下鉄・筑肥線の広告。
「席を取っているんですか?」「取っているんです!」と言う意味なのか、それにしても。
【九州は独立国?】
ほんの一部をみただけだが九州の海岸線は長大で、海も山河も豊かに見えた。大企業はことごとく進出している。これまで知り得た九州人も含めおしなべて皆さんは自我がハッキリしてまめだ。九州弁は独特で情がこもりやさしい。
なんといってもアジアが近い。今後何か事が起これば九州は独立してしまうのではないか、と少々心配した。
以上恋々として長くなりました。著名な観光地を巡ったわけではなく、隅々まで個人的な旅でしたので面白くは無かったかと思います。読んで頂いた方々に恐縮と感謝を禁じ得ません。
南国・西国の小旅行Ⅶ:錦帯橋 なんばグランド花月 雪の新潟空港。
母の遺影を背に旅行の最終日3月20日。これまで急ぎ足ながら念願の地をめぐることができた。博多発7:44の山陽新幹線で帰路についた。 帰路で是非寄りたい所は錦帯橋だった。小学校時代に集めた切手のなかで最も目を奪われていた図柄が錦帯橋。立体的で変化に富んだ大きな橋は印象的で、いつかは見たいと思い続けた。 錦帯橋の切手。
博多で買ったゆずスカッシュは美味しかった。 |
電車を模した「いちすけ号」 |
博多から広島まではあっという間。錦帯橋の岩国へは広島から山陽本線の鈍行で往復した。岩国駅から橋までの交通は赤いバス「いちすけ号」だった。電車を模した形態だが内外とも頑丈で、真ちゅうなどもピカピカに磨かれていた。
70才にして初めて錦帯橋とはいかにもオクテなことだが、憧れの橋を渡りおおいに満足した。橋を中心に眼下一帯はいかにも清々した広大な日本庭園の様相。江戸初期から今日までたびたびの損壊を越えてよく保存されている。大きな建造物を造るならこのように他に比類のないものを作るべきではないかと思った。
広島は寒かったが、錦帯橋は若い人にも人気があるようでかなり賑わっていた。
周囲の美しい自然をいっそう見事に引き立てている。 |
一帯はみな気持ちがよい。 |
大阪空港発19:00の新潟への帰路。新幹線は京都まで行くとそこで2時間弱の余裕が見込まれていた。一月前には西行ゆかりの勝持寺へ行こうと考えていた。しかし桜が未だなこと、空港へのシャトルバスの面倒も考えて見切りをつけた。思いついたのが新大阪で降りて「よしもと」を見ることだった。
出発の1週間まえ、突然に浮かんだ180度の方向転換。すでに感傷旅行は十分に済ませていよう。いい考えだと思いなんばグランド花月の切符をネットで買っていた。
満員の会場でザ・ぼんち、オール阪神・巨人、のりお・よしお、月亭八方、それに吉本新喜劇を途中までみた。渾身の漫才は素晴らしく、大阪の人たちと一緒に笑えて幸せだった。間もなく乗る飛行機なのに、落語は飛行機が着陸に失敗する話で戸惑った。
暖かな大阪から雪の新潟空港へ。きっちり南西へ旅行した実感がした。20日の食事は昼食を広島駅で買ったお弁当(あなごや海鮮類がほろほろと入り大変美味しかった)。夕食は空港でカレーを食べました。
さて以上無事に旅行を済ませることができました。患者さん達にはご迷惑をお掛けいたしました。母の逝去から考えていた念願が叶って喜んでいます。
次回は旅行の諸印象を記して終わりに致します。大変長々となり恐縮しています。
西国・南国小旅行Ⅵ:母の故郷古枝から上峰町、鳥栖(とす)、博多へ。
旅行3日目の3月19日(月曜日)薄曇り。普段なら仕事の日であるが、休診の無理を聞いていただいている患者さんに感謝しながら一日を過ごした。福岡県→長崎県と来て本日は佐賀県へと入る。
目的は母の実家があった佐賀県鹿島市に行き、母ゆかりの菩提寺、酒蔵通り、古枝小学校、祐徳稲荷の訪問。これらの後唐津で借りていたレンタカーを返却して、肥前鹿島駅から長崎本線に乗車、従弟が住む上峰町へ行く行程だった。
この朝、寝坊して佐世保の出発が一時間以上遅れた。昨夜のホテルで睡魔をこらえて新聞を読むうち目覚ましをセットせずに熟睡してしまった。レンタカー借用の時間延長を申し込んで鹿島市へ向かった。鹿島までは順調だった。
以下はこの日の行程です。
酒蔵通り。 |
泰智寺。 |
母の生地古枝は肥前浜に近い。浜には古い酒蔵通りが保存されている。昔はここに銀行があり、通帳を管理していた小学生の母はしばしばそこへ通ったと聞かされていた。背伸びして銀行のカウンターで書類に記帳する。寡婦の母に少しずつ貯金が出来ているのが嬉しかったという。
右は菩提寺の泰智寺(たいちじ)、曹洞宗の古刹でなかなかの格調だった。過日は日野正平が自転車で全国を回る番組「こころ旅」で訪ねて来たと聞いた。
供養堂で。 | お庫裏の梅の下で。 |
菩提寺では遺影を前に優しいご住職に読経して頂いた。満開の梅の下で写真も。
古枝小、大きなキンモクセイの下で。 |
上越市板倉に似た風景。 |
古枝小学校を訪ね校長室で幾ばくかの図書費を寄付させて頂いた。親しく迎えていただいた中村校長は母方の親戚にあたる人だった。
ところで新潟で、時に母は2泊3日で板倉のショートのお世話になった。行くと風景が故郷に似ているとよく言った。このたびの古枝では確かに板倉と非常によく似た風景が見られた。
祐徳稲荷の門前通り。 |
壮大な祐徳稲荷。 |
この稲荷もよく聞いた。台風で夫(母の父)を亡くした妻のヤイは魚屋をはじめ、この門前町を顧客にして仕事を伸ばしたという。
いとことのT氏とお寿司屋さんへ。 |
奥に背振山。 |
午後2時にレンタカーを返し、3時すぎ長崎本線の鹿島を出発、佐賀を経由して従弟T君が待つ吉野ヶ里公園駅へ。T君は大学時代に東京でお会いして以来で、本当に懐かしい。全国展開のスーパーチェーンのリーダーとして活躍した人だ。沢山ご馳走して頂き恐縮した。
右の背振山は母の九大時代の医師がこの山の夕雲を歌にした。“背振嶺に腰うちおろし居し雲は夕方負けて流れ染めつつ”は母から何度も聞かされていた。この日夕雲は掛からなかったが、ついに背振山を見ることが出来て感激した。
母方の親戚と撮ったのか。 |
戦死した陸軍中尉の母の弟。 |
いとこ宅で二枚の写真をはじめて見た。左の母は母方の親戚たちと一緒にちがいない。とてもくつろいでいる。右の丸の軍人は母の末弟K氏だ。早く父を亡くし子守がてら赤ん坊の氏を背負って小学校へ通った母。成長した弟は大変に頭がよく抜群の成績だったと聞いた。
陸軍士官学校を出た同氏は敗色濃いレイテ島の戦闘で小隊を指揮して戦死している。昭和19年7月31日、満州牡丹江を発って5ヶ月、その年の12月20日アメリカ軍に対する迎撃戦だった。
手塩にかけ弟の早い戦死を母は最後まで悼み続けていた。かけがえない弟たちに稚拙な武器を持たせ容赦なく突撃死させる。聞きたくもないが、大切に育まれた人間達を簡単に死なせる戦争をどう正当化するのだろう。
K氏は密かに日記を付けていたという。表紙には極秘と記してあったらしい。上層の大局観か戦略を批判していたのかもしれない。
九州の交通要所として発展している鳥栖。 |
博多まで乗った特急つばめ号。 |
この日、時間に追われたことと一帯の様変わりで、母の旧実家を特定できませんでした。しかし古枝にいる間感じていた安心は、やはり母を育んだ故郷の暖かさにちがいないと思いました。
暗くなって従弟夫婦から車で鳥栖まで送って頂いた。そこから特急つばめ号で博多駅に着いた。明日は早い山陽新幹線と飛行機で帰路につく。慎重に目覚ましをセットしフロントにコールを頼んで寝た。
高等小学校卒業年の母の通知書。
ある種不遇の8年間を皆勤で通した母。
これらの証書はこのたびの実家訪問で初めて見ました。
越後で何かと変人扱いされた母、済んだことですが勝手に名誉回復を願い、
掲げさせていただきました。
まったく早いもので一週間前の土曜日夕刻に新潟空港を発ちました。毎日長々と書きご迷惑をお掛けしています。次回に最終3月20日(火)の行程を記し、その後まとめを書くつもりでおります。
ご家族で年間20回以上樹下美術館へいらしていただいているKBさん、ごちそうさまでした。
近江八幡のハリエ製のバウムクーヘン、本当に美味しいですね。
南国・西国の小旅行Ⅴ:佐世保は浦頭引揚(うらがしら ひきあげ)記念平和公園。
前記しましたように虹の松原を泣き泣き歩いた。その後再び筑肥線に乗って唐津で降りた。
唐津はレンタカーの営業所へ直行、車を午後1時から24時間レンタルして佐世保へ向かう。途中の伊万里などもスルーして、一路目的地、浦頭引揚記念平和公園を目指した。
浦頭(うらがしら)は複雑な佐世保湾のやや南よりに位置している。途中の花などを撮影しながら夕暮れ近く目的地に到着した。公園は小高い丘の上にあり、長い階段を登った。
正面の彫像などはホームページで見ていたが、目の当たりにして全体の広さと手入れの良さに驚かされた。歴史を丁重に扱うのは知性と良心であろう。公園は市が管理しているのだろうか。
公園からの眺め。引揚げ船は湾の左奥から右手前にある桟橋へ入港したらしい。
園内の説明板から。検疫後も厳しい行程が待っていたことが分かる。
昭和20年10月から25年4月まで引揚者と復員兵の合計140万人もの人が
南風崎(はえのさき)駅から故郷へ帰っている。
全国では舞鶴、佐世保、博多など8港ほかを経て、
660万人を越える人々が困苦のなか帰還したという。
表情や姿に癒された記念像。
制作者の小金丸氏は太平洋美学校教授、東大講師の経歴の人。
昭和21年の今頃の季節、0才と3才の弟、6才の姉と4才の私を引き連れて当地に上陸した父母。
満州では引き揚げを前に、母は私たち三人の子どものために一つずつ小さなリュックを作ったという。
出発の前の晩まで一番張り切っていた私は本番では全く駄目。リュックの代わりにオマル?を背負わされ、健脚の弟が頑張ったらしい。
かすかな記憶を拾ってみると緊張場面ばかりだ。満州で乗った貨車や客車、途中の襲撃、引き揚げ船の雑魚寝やうす曇りの甲板がうっすらと浮かぶ。しかし佐世保の上陸に関して全く記憶が無い。私はすでにふらふらになっていたのだろう。引き揚げはそれぞれにとって文字通り命がけだったのだ。
このたび訪ねた記念平和公園への階段を登り始めてから帰るまでの一時間、虹の松原同様やはり涙を禁じ得なかった。大きな荷物を背負い私たちを守った一文無しの父(満鉄病院の医師だった)を思っていた。
3月18日は九大病院→虹の松原→唐津、伊万里→浦頭引揚平和記念公園→佐世保で泊った。この日昼食を摂るヒマがなかった。
当旅行で見た家々の梅と椿、山道に満開だったアブラチャン、そして時折のキブシ。道中慰められた花は二三のエピソードとともに最後にまとめて掲載させて頂こうと思っています。
南国・西国の小旅行Ⅳ:虹の松原で泣く。
3月18日(日)、九大病院からタクシーに乗り最寄りの地下鉄駅で降りた。地下鉄は姪浜から陸上へ出ると筑肥線となり玄界灘に添って走る。車窓は広く次々に変わる海の景色が美しかった。小雨が降ったり止んだりしていた。
若き日の母のことで、写真によって唯一場所が特定出来るのが虹の松原だ。西唐津行きの普通列車は11時半ころに当地へ到着した。小さな空色の駅舎は無人で、目の前にはすでに広大な松原が広がっている。何十万何百万本といわれる黒松が続く素晴らしい場所だった。
左19才の母の虹の松原。学校の合宿のような行事があったらしい。
東に向かって白砂と松原 |
西へも |
多分ここへ来たら泣くだろうと思っていた。その通り松原を横断して白い砂浜に出るとすぐに涙がこぼれた。
また来ましたよ、背中の遺影に言葉を掛けた。ウオーキングの人たちは林の道を足早に歩く。砂浜を歩くのは自分だけだ。遠慮なく涙を落としながら歩いた。
カメラを見ていた日傘の母は77年経って車椅子の遺影となって背中に居る。しかし老若を駆け抜けたその人は、人生のはかなさだけを伝えているようには思われなかった。学び読み倹約し、老後も懸命に自立を続けた姿を私は脳裏に刻んでいる。
この人からもらった人生。はかなくはあっても美しい砂浜で泣いているだけで有り難いことではないのか。憐憫とともに深い感謝に包まれた。
感傷と言われればその通りだと思う。25年前の正月に、3泊4日の京都・奈良旅行を子どもたちとした。以来今日まで生きて、感傷旅行以外に私の旅は考えられなかった。
南国・西国の小旅行Ⅲ:九大医学部・病院 母への憐憫。
19日(日)は二日目、この日から母の若き足跡を訪ねてみる。ホテルの小さな食堂でモーニングを食べ、ハンカチで包んだ遺影をリュックに入れて8時半すぎに宿を出た。
母が学んだという九州大学の看護学科(当時は別の呼び名があったらしい)のこと。入学式のこと、級友と本の貸し借り、寄宿舎のしきたり、泣いてばかりいた同級生、満点を取れなかった最終試験、、、、何度も聞いていた。
訪ねた朝の構内は静かだった。話のとおり医学部と附属病院は大変立派で広大、旧帝国大学の風格を今に伝えていた。看護学科は現在保健学科に含まれて北東の隅にあった。
大きな病院 |
看護学部がある保健学科 |
昔からの正門らしき左部分 |
右部分 |
看護学校の入学式で母は初めて見る同級生の身なりの良いのに驚く。みな立派な袴を付け、時計をしていた。その中で、自分は自らの母が縫ったつんつるてんの袴で時計も無かったらしい。
父の夭折などある種不遇の中、8年間皆勤した高等小学校から看護学校まで主席を通したという。満州で医師の夫(小生の父)と出会う母。終戦後新潟の我が家へ嫁として入るや、「ぐうの音も出ないほどに」姑、小姑たちに押さえ込まれたらしい。ばらばらな作法、風変わりな言い訳、作り話のような話など一部変人扱いを受け、私たちさえある部分そう思うようになった。
しかしその晩年(80才を過ぎて)、遅きに失したが母の中に“素晴らしい人”が見えるようになった。息子が言うのも可笑しいが、勤勉と読書、超絶な記憶力、一発で人を見抜く眼力など、、、。私たちの方こそ見抜かれていたのか?私は自分を恥じ、母へ強い憐憫を抱くようになった。
恥ずかしながら平成16年から4年間、当地の医師会長職をけがした。260人の医師たちは個人としてみな優しいが、当然ながら団体活動となると時に面倒な側面を見せる。医師会は自身の問題とともに公共として常に複数の課題を抱えている。
会員に抵抗されて動きが止まれば地域の水準は遅れる。その前4年の副会長時代も含めて、地域水準などを意識させられると非常にストレスを感じた。
不思議なことだったが、行き詰まりそうになると母を構いたくなった。車に乗せ、散歩をし、昔話を聞く、最晩年は車椅子を押した。すると気が休まり、面倒な会議を続ける意欲が沸いた。母をかまうことがストレスに良いなどとは考えてもみなかった。
余談が長くなりました。
看護学校の外出は厳しかったようでしたが、一旦外出の際は上掲の門で、「行ってきんしゃい」と守衛さんに言われたようです。
(記載しました母のことは一部当ノート「我が家」に書かせて頂きました、繰り返しをお許しください。)
次は大学を出て10:30頃の地下鉄ー筑紫線でおよそ1時間10分、昼の「虹の松原」を書かせていただきます。
南国・西国の小旅行Ⅱ:チャンポン 旅の携行物は多いな。
17日夜無事に福岡の宿に着いた。なぜか九州の実感が無く大阪に居るという錯覚を吹っ切れなかった。
16日から15000人もの参加者がある巨大な学会が開催されていて、福岡市内のホテルはどこも満室。数日前にようやくキャンセルで小さなホテルが一室取れていた。
店内では皆チャンポン、お客さんを見ていてある事に気づいた(後日書きます)。
せっかくの九州。博多駅前のビル内にあった店「リンガーハット」でチャンポンを食べた。初めて知ったが、同店は国内外におよそ500店舗を展開するチェーンらしい。
普段から自分はさほど食べ物にこだわりが無く、外食も大抵のものを美味しいと思ってたべる。この夜餃子とともに食べたチャンポンは沢山入る野菜が新鮮であっさり味、健康的な食べものだと思った。
壁にお洒落なボード。チャンポンや店の歴史のことかと思ったら、野菜、麺、スープ、どれもみな特別仕立てだと書かれていた。ちなみにリンガーは幕末~明治に長崎に来た英国の実業家の名、ハット(hut)は小さな家という意味だった。
一人旅の身支度。リュックとポシェットは数日前ジャスコで買った。
革ジャンと帽子はいつものもの。
それにしても今どきの旅行は携行物が多い。沢山のJR切符、航空予約券、ホテルのクーポン券、保険証、運転免許証、財布、薬、本、紫外線カット品、整髪料、充電器、自作の行程表、鍵類、飛行場の駐車入場券、着替え、カメラ。家に居れば何気ないものまで毎日眼を遠し管理して携行する。旅慣れないので随分なストレスだ。明日から本番、妻が居ればこの携行ストレスは半減するのにと、思いながら休んだ。
泣いたり笑ったり 南国・西国の小旅行Ⅰ。
“いつか母の故郷の佐賀県を訪ねなければ、それに自分が4才の足で初めて歩いたであろう日本、佐世保も”。漠然と抱いていた考えを昨年8月に母が亡くなり、満州から引き揚げた三月を期に、このたび実行してきました。
主な行程は以下のように慌ただしかった。
17日夕刻(飛行機)新潟空港→福岡空港→福岡泊まり→18日(タクシー)九大病院→(筑肥線)虹の松原→(筑肥線)唐津→(レンタカーR202)唐津→佐世保→浦頭引揚記念平和公園→佐世保泊→19日(レンタカー・西九州自動車道など)鹿島市→泰智寺→蔵通り→古枝小学校→祐徳稲荷→(長崎本線)肥前浜→吉野ヶ里公園→従弟宅→(長崎本線)鳥栖→博多、福岡泊→20日(山陽新幹線)博多→広島→(東海道線本線)広島→岩国→(バス)錦帯橋→(東海道本線)岩国→広島→(山陽新幹線)広島→大阪→(タクシー)なんばグランド花月→(タクシー)大阪空港→(飛行機)新潟空港。
一部は一般的な観光ルートではなく、かつ妙な書き方のためお読みになった方はさっぱりかもしれません。申し分けありません。
本日は肌寒かった広島から暖かい大阪へ。そして今夜の新潟空港は思わぬ降雪で驚かされました。泣いたり笑ったり驚いたり色々ありました。備忘も込めて次回から拙旅の模様を記してみます。
遅く書き始めましたので日付をまたいでしまい、21日(水曜日です)の夜中となりました。
先生お気を付けて、皆さんも。
「先生お気を付けて」、最近何人かの患者さんに言われた。この連休に九州へ行くと、2月以来皆さんに配りものをしてきた。私用で休むことになり、本当に申し分けないと思っている。
私ごとながら昨年8月に母が亡くなった。以後その故郷である佐賀県の旧古枝村(現鹿島市)を訪ねることをずっと考えていた。越後へひとり来て65年余、母からは晩年になって色々生地のことを聞いた。浜の蔵通り、古枝小学校、潟(がた)、川あそび、七夕、祐徳稲荷、遠くの山、水車小屋(もうないだろう)、菩提寺(泰智寺)、、、。
このたび65年の星霜を経て小さな遺影となっての里帰りだ。昭和21年3月、一家で満州から佐世保に引き揚げたあと、10日ほど母の実家に滞在した。私は4才でしかなかったが、畑の向こうに見えた母の家になんとも言えない安心と希望をおぼえた。
今回は戦後136万人もの引き揚げ者が上陸した佐世保港浦頭(うらがしら)埠頭、記念平和公園、そこから全国へ向かって引き揚げ者が乗車したという「南風崎(はえのさき)駅」などへも寄りたいと考えている。
帰りに広島で降りて少し戻り、小学校時代からの憧れ“錦帯橋”へ寄れることも嬉しい。平日を潰してこんなに家を空けるのは昭和50年の開業以来初めてだ。これも患者さんたちと母のお陰だと感謝を禁じ得ない。
19日まで当ノートをお休みさせていただき、後日九州のことなどご報告させていただければ有り難いと思っています。
患者さんの皆様、どうかお変わりなくお過ごし下さい。何十年ぶりに乗る飛行機で行って来ます。
(3月17日午後1時15分)
幸い住むべき板倉の里が。
昨年亡くなった母がよくショートステイでお世話になった板倉さくら園。「こぶし」の部屋をよく使わせて頂いた。
母はそこから見える風景を気に入っていて、90才の頃に幼いスケッチを一枚残した。重なり合う山並みを見ながら“山のあなたの空遠く幸い住むと人の言う、、、 ”と言っていた。
このたびの地すべりは、位置としてこの絵の右方。樹木乏しく茅のような草に覆われた裸のような山で起こった。この山の姿は一種異様で、かなり遠くからでも眼に写っていた。
板倉さくら園は新井柿崎線で行けば一発だったが、バイパスを使うと中々うまく行けなかった。それで何かと当山を目印にした。
こぶし咲くゑしんの里板倉。ショートの行き帰りに迂回して母とよく現地一帯を走った。思い出深い平和な一角がこんなことになろうとは。治山の点で深刻な問題があったのではないだろうか。
有意義な在宅リハ リハ科では週末にもリハを。
リハビリは施設だけでなく、療法士がお宅を訪問して行う在宅リハも一般化しつつある。私の患者さんもお二人が病院PTの訪問で生活リハを受けられ、お一人は訪問看護ステーションによるリハを受けている。
利き手機能を失っているので、不完全な左手で上の手本を真似て書く。
上掲は以前の交通事故で四肢麻痺になられた方が、訪問看護によるケアとともに始められた書字のトレーニングだ。記憶喪失、失語症もあり、このところ精神活動が停滞気味となっていた。ところが看護師さんの助言で喜んでノートに向かわれるようになり、気持ちも穏やかになってきた。実生活に密着した訪問リハは良いカテゴリーだと思う。在宅リハは家族の意識が高まり、年中サポート出来る点も現実的だ。
ところで拙い経験から病院リハに、ある問題を感じていた。かって母は骨折で入院→手術→リハと進んだ。リハ科では熱心に取り組んで頂いた。但し実施は平日だけで、週末の二日は休みだった。ともすれば後戻りしたがる障害機能を、前に進めるリハビリテーション。効果を上げるには毎日行われることが望まれた。
しかし当時、大方の病院では暦どおり週末は休みだった。必要な薬剤投与や処置が毎日行われるのに対し、リハは週に二日も中断がある(入院費を払っているのに、、、)。そのため入院中であっても、一定の退行(元への戻り)の止む無しが残念だった。
週末に訪ねたら、何もしてもらえないと言って泣きそうになっていた母を思い出す。週末のスタッフ確保が隘路だったにちがいない。
ところが2010年に365日体制が可能なハビリテーション科において、保険給付による休日加算が可能となった。積極的に取り組めばリハの大きな前進であり、人件費への充当も可能となる。近隣はこの流れを一般化できただろうか。
軍隊の泉。
2月に脳梗塞で長い在宅療養の男性Sさんが激しい痙攣を起こした。90才になった人で、以前は感染症による高熱で何度か発作を起こした。このたびは過剰な暖房で部屋は暑く、汗を掻いていて冬の脱水だった。
入院をせず点滴で快復され、今では鈍かった反応は戻っている。今日伺うとぼんやりされていたが、私が敬礼をすると蒲団から手を出して敬礼された。その後は満面の笑みだった。戦前のSさんは何度が中国へ出兵されていた。
「角度は30度です。海軍は15度」、入れ歯を取った口をモグモグされなが手の角度を仰っている。以前からすっきりしたお顔と体型で素直な気質の人だ。
何度か軍隊時代のことを聞いていたが、以下の話が印象に残っている。
●新潟県のN日赤の病院長だった軍医が居て、先生のお父さん(私の父)のことを知っている、と言われびっくりした。遠い外地で知らない上官から、自分が知っている人を知っている、と言われると嬉しかった。
●上級将校は柳行李(ヤナギゴウリ)というものを持って移動した。ある日、その将校が私に「緑の地平線を歌ってくれ」と言った。私はその唄を知っていたので歌おうと思った。すると将校はヤナギゴオリからバイオリンを取り出して前奏しはじめた。私は大声で歌ったが、とても感動した。
柳行李に何が入っているかいつも考えていたが、まさかバイオリンが出てくるとは思わなかった。
●T大尉は上越出身の軍医だった。戦争が終わると「英語を教えてやろう」といって虹やポストや道など、見えるものの単語を習った。とても良い発音だと思った。
軍隊にも泉のような人、泉のような時間があったらしい。
荒天の日に花束 志津川小学校の先見。
昨夕に続き一日中冷たい風が吹き荒れた日。明日にかけてさらに気温が下がり降雪が予想されている。そんな日にも僅かの来館者様が来られる。
大荒れの日、館内は返って静かに感じられる。お客様は作品を観てお茶を飲みゆっくり本を読まれていた。
外は大荒れ、静かなカフェにAさんからのお花。
すぐ前で水仙が伸びている。
この日、お二人の方とお会いした。Aさんは髙田の方でご夫婦ともよく知っている。今春から週一で庭や美術館を手伝って下さる。よい人にめぐり会えたことを感謝したい。
もう一かたは記者のB氏。昨年3/11では南三陸町の弟一家のことでお世話になった。その時の私のことをよく覚えていて、ああ自分はそんな風だったのか、と振り返った。弟は駄目でも小学生の二人の姪だけは、と私は必死だったという。
南三陸町の志津川小学校は町を見下ろす十分な高台にあった。しかし津波が襲ったのは下校時間。しかも直後からあらゆる音信が途絶する。だが学校が全校生徒を校内に留めたので間一髪みな助かったのだ。
過去たびたび甚大な津波被害を受けた風光の志津川。もとは低地の川沿いにあった学校を、昭和50年代?に高台へと上げたという。高台の不便を考えれば、建設には硬い反対もあったにちがいない。敢えて先見に徹した当時の関係者に今あらためて深い敬意を覚える。
一方、あの日低地に作った防災庁舎に職員を残こしたため、41人もの貴い犠牲者を出した惨禍はあまりにむごい。学校を移し人を救った先人に比べれば賢愚の差に言葉もない。
B氏は震災の話の後、一生懸命カフェの食器を写してから展示へと足を運ばれた。Bさんは、19世紀後半のイギリスにおけるアーツ&クラフト運動を語れる貴重な記者さんだ。
たとえ翼があっても。
早春の頸城平野(本日の昼,大潟区蜘蛛ケ池周辺から)
日中の晴天は夕刻が近づくにつれて気温が下がり冷たい風が吹き出した。昨年の地震の時間が近づく頃に、美術館の近くで田の白鳥を見ていた。雪解けした田には北帰行を控えた白鳥が沢山集まって食餌をしていた。
一年経つのに映像の被災地は膨大な瓦礫の山に占拠されたまま。腹に響くような復興の足音が届いてこない。
夕刻近く急に強まった季節風に向かって飛んできた白鳥。
黒っぽい若鳥も一人前だ。
田んぼに落ちていた白鳥の羽。逆光のガラステーブルに置いて見ると美しい。
新潟県にはまだ7000人の福島県の方が避難されている。私の診療所でも何組かの親子さんと顔馴染みになった。ご主人たちの多くは単身福島県で仕事をされてると聞いた。
春を迎えて帰る鳥、翼がありながら帰れない福島県の人々。放射能汚染が家族を引き裂く。麗しい日本はこんな国ではなかったはず。
昼の温かな時間に妙高市から孫子が海を見に来た。大喜びでシーグラスを探して帰った。
今日は今年一番お客様が来られた。
明日は3/11 これから原発がはじめる第一歩。
昨年3月10日、どんな地震学者も先端の予知システムも翌日に起る未曾有の大地震を予想出来なかった。同じ地平に立てば、それが出来ない科学や国家や企業に防災都市や原発コントロールが果たして出来るのだろうか。
優れた科学者によれば、先端研究は進めば進むほど謎が広がるという。あるいはまた“経験を越える分野に入るほど悪魔の領域に近づく”とは、哲学者の深淵な言葉である。
これはまた我々の親たちが命がけの百万年をかけて得た真実ではないだろうか。
これらの哲理に照らせば、例えば原発事故に対する適切なベント?であれ元素中和?であれホルミシス?の楽観であれ、新たな緊急発電装置?であれ、水準としてはよくてもファンタジーレベルの危惧を否定できない。
原発のAtoZは科学(+魔界)の領域であり、そのうえ一旦事が起これば最大規模で風評被害を発生させる装置でもある。
意外かもしれないが科学の神髄は「慎み」を置いてほかにない。科学と称する尊大なオカルトや大金持ちのバイアスほど危険なものはない。怖れを知らぬ科学こそ大災害の最大の原因ではないかとさえ思われるほどだ。
「懲りに懲りる」こと。大災害から得られる唯一の教訓であろう。予防・防災・復興、みなその上に立たなければ、何一つ犠牲者に報いることにはならない。
今日言われる広域防災、情報の共有化なども、一体何が有り難いのかよく分からない。そもそも爆発事故で避難出来ても、もとへと帰れないものを防災と言うだろうか。犠牲者を集団化させただけ、事故の矮小化である。ご承知のように原発の防災とは爆発事故を起こさないこと一点しかない。
例えば繰りかえされる微細な地震や永年の金属疲労でいつ巨大な高速タービンが吹っ飛ぶか、だれも言わない。分かっていても会社は触れないだろう。今後の大事故は、津波と無関係に起こることが十分想定される。原発テラテクノを構成するナノピコテクノ。僅かの誤作動や精度の狂いが瞬時に大事故に繋がり得る。
唯一可能な現実の防災とは?例えば柏崎・刈羽の7基の原発を明日にでもまず一基を放棄する(廃炉を決定する)ことから始まろう。それで即周辺リスクの7分の1を文句なく減らせる。たった一基であっても、それは柏崎刈羽・国県、電力会社・経団連によって初めて示される良心として、何十万人、いや何百万人の緊張と精神を和らげ、孫子(まごこ)への代え難い福音となるはずである。その後も次々と減らし続ける。莫大な経費が掛かるが、すでに原発の防災とはそういうものだろう。
繰り返すが、無事に逃げる事しか考えないのは防災ではない。私たちは自分の土地でまっとうに暮らすべく人生を送ってきた。代替発電も節電も予防・防災もすべては危ない火元を亡くすことからしか始まらない。
光栄にも杉みき子先生のお隣で拙絵が売れていた。先生は何点も。
会場で沢山の絵に囲まれている拙絵は恥ずかしそう。
さて本日、第4回東日本大震災&長野県境地震復興支援チャリティ「アート&アーティストの底力」上越展に行って来た。県内外130人に迫る出品者によるアーティスト展は豊かで非常に楽しめた。
同展には一人でも多くの人にお出かけ頂き、一点でも多く買って頂きたい。芸術にはお金を出して初めて楽しめる側面がある。当展は良い小品でいっぱいだった。私もこんなに安くていいの、という気持ちのいい現代アートを一点買った。ぜひ皆様もお出かけ下さい。
美術館より人気のフキノトウ そして免許証やこぶしの絵。
美術館に隣接する自宅庭の南側は、小さな水路を挟む土手になっている。毎年フキノトウが出ていたが、私が少し植え足し、さらに以前庭を手伝ってくださったおばさんが足した。それで土手は沢山フキノトウが出るようになった。
フキノトウの一番乗りは私たちがしたい所だが、あるおじいさんが知っていてしばしば先に取られてしまう。そこへこの数年、あるおばあさんも狙っているという。
本日スタッフからもう出ていると聞いた妻が、いくつも取ってきた。これからどんどん顔を出すだろう。私たち、スタッフ、おじいさん、おばあさん、多分ほかにも。みんなで注目している土手。3月早くの美術館はいつもヒマだが、土手の方が先に賑わう。
本日、運転免許証が出来る日なので午後一番に安全協会へ行った。その昔、期限を20日も過ぎて気がつき、講習からやり直した経験があるので、今ではカレンダーに大きな丸を付けて用心している。
その足でギャラリー祥さんへ作品「こぶし」を搬入した。小品なので持参というべきか。すると夕刻オーナーから電話があって、私の絵を欲しいという人が二人現れた、と知らされた。
彼女は、公平なチャリティなので明後日からの期間、一番に来てとお話した、と仰った。嬉しい反面少し困ってしまうお電話だった。
あの雪はいま雨となり そして辛夷(こぶし)の油絵。
雨ほど雪を消すものはない。これに南東の風でも当たればもっと消える。ここ二日続いた雨で雪消えが進む。上越市大潟では30㎝あるかなしかとなった。
こんな日のもやは、融けた雪が地面で暖められ水蒸気となって立ちのぼっているのだろう。
午後の往診、訪問の雪もや(上越市大潟区)。
雨が融かしているのは嘗ての自分にほかならない。
“ あの雪はいま雨となり降りしきる嘗ての己身をみな消さむとて ”
いよいよ3月9日(金曜)~15日(木曜)まで上越市本町5丁目の「ギャラリー祥」さんで第4回東日本大震災&長野県境地震復興支援チャリティ「アート&アーティストの底力」上越展が始まる。
同展に当ノートに掲載した水彩の辛夷を仕上げて出品するつもりだったが、規格サイズより随分大きいことが分かった。それで一花だけ取り出して小さなSMサイズ(ハガキ二枚より一回り大きい)のキャンバスに油絵として描いていた。
あれこれやりとりして今夜何とかゴールとした。まことにお恥ずかしい作品ながら、大島画廊で簡単な額を付けてもらい9000円のチャリティとして出品してみたい。
同じ鳥でも ムクドリとハトは。
生き物に上下をつけたくないが本日午前、二種の鳥を見て如何ともし難い違いを感じた。
潟町の診療所二階屋根の軒下に毎年ムクドリが営巣する。「ギイギイ、ギャアギャア」と鳴き声は耳障りだ。しかもしばしば争い、壁に激突するほどの大騒ぎも演じる。
本日、車に乗ろうと外へ出るとまことに賑やかにやっている。大きなくちばしを開けて攻撃したり絡みあったり、周りも鳴いて騒ぎ立てる。延々と続きそうなので出かけた。
さて用を済ませて帰ると今度は頭上を白い鳥が横切った。伝書バトだ。サーッと羽音がして実に爽やか。騒がしいムクドリを見たばかりなのでハトの優美さがことさら引き立つ。
人も社会も国も世界も、ハトの如くあればいいのに。この時期、ムクドリのように何かと攻撃し騒ぎ合うのは少々うんざり。
潮だまり二つ残して行った冬。
午前には雪もあろうかという予報が外れた一日。昼過ぎの柿崎の海は、沢山あった潮だまりが僅かとなっていた。
これから思い出したように一雪あったり、風花がチラリホラリとするだろう。しかし季節の入れ替えは始まっている。
“ 潮だまり二つ残して行った冬 ”
それから寄った美術館に春の帽子と装いの若い女性。コーヒー、ケーキ、水、お番茶、本、手帳などカウンターいっぱいに並べてニニコニコされていた。
いよいよ今年も始まっている。
いつも静かに始まる樹下美術館。
樹下美術館は今年の開館日となった。例年初日にこだわってくださるお客様6人とお二人の取材の方が来館された。静かに始まる初日は樹下美術館らしい。
木曜午後を休診にしているお陰でちゃんと取材を受けることが出来た。大小15の倉石隆氏の作品は14点が初展示。齋藤三郎の陶芸は初展示4点を交え季節順でみるので新鮮だったとお聞きした。
上越よみうりのk氏にはいつもお世話になっている。じっくり話を聞いて下さり窓外の雪に苦労されながら食器まで撮って下さった。お忙しいのに有り難うございました。
上越タイムスの若いIさん、初めてでしたがこれからが楽しみです。今後ともどうか宜しくお願い致します。
また明日弥生の入り陽を見送れり
展示作業の終了 今年も宜しくお願い申し上げます。
一日がかりで絵画と陶芸の展示作業を終了した。
樹下美術館は作家二人の小規模な常設展示館。作品は限定されるがそれでもテーマによって雰囲気が変わってくる。未発表の作品も混じるので飾り終えて我ながら面白いと思った。
展示作業は一枚ずつ慎重に。
高さ、水平、相互関係、ワイヤーの平行、照明具合など見て架ける。
今年の展示
●倉石隆氏の絵画:「多様な倉石隆」と銘打った。戦後髙田の風景スケッチ(2枚)、髙田の家族や生活スケッチ(4枚)、上京後の作品は「詩人」「室内の裸婦」「秋」の3枚の油彩、「椅子に座る裸婦」のデッサン、挿絵原画「宝島」(5枚)で合計15点を展示した。
絵画は少々混雑ぎみだが、賑やかさも悪くないということでご勘弁願うことにした。うるさ過ぎるとなれば油彩を一点少なくするつもり。
●齋藤三郎(陶齋)の陶芸:「陶齋の四季」と銘打った。春は梅(2器)、こぶし、椿、ぼけ(2器)、芍薬。夏にとうがん、浴衣着ての俳文、あさがお、あざみ、うばゆり、ふよう、やなぎ、とろろあおいを。秋はどんぐり(2器)、柿、かぶ、ざくろ。冬として柚子、雪輪紋、雪花紋、雪持ち笹(三器)。合計27点を展示し、陶齋の絵画(菜の花、うばゆり、水仙)の3点も架けた.
今年の催事・事業
●催事:・堀口すみれ子さん、三回目の講演会:「堀口大學を巡る人々」
・「竹花加奈子さんのチェロ、蓮見昭夫さんのギターデュオコンサート」
(コンサートは後ほど詳しくお知らせ致します。
●事業:5月中に懸案の収蔵図録を陶齋、倉石、それぞれ発行予定。
●図書の追加:『世界素描大系全4巻」「パウルクレー画集」「くびき自動車の80年」「ゴヤ展図録」など。
深夜に妻と最後の展示調整をして帰ったが、満天の星空だった。
今年もどうか宜しくお願い申し上げます。
- 花頭窓、二十三夜塔、庚申塔、社寺
- 樹下だより
- 齋藤三郎(陶齋)
- 倉石隆
- 小山作之助・夏は来ぬ
- 聴老(お年寄り&昔の話)
- 医療・保健・福祉・新型コロナウイルス
- 花鳥・庭・生き物
- 空・海・気象
- 頸城野点景
- ほくほく線電車&乗り物
- 社会・政治・環境
- 明け暮れ 我が家 お出かけ
- 文化・美術・音楽・本・映画・スポーツ
- 食・飲・茶・器
- 拙(歌、句、文)
- こども
- 館長の作品。
- かって認知症だった人、晩年の「ありがとう」は「好き」だった。
- 妙高市はいもり池の近く「ギャラリー峨々」を訪ねた。樹下美術館も紅葉。
- 再び良寛椿の苗。
- 1本の木にキンカンとカラタチの実が。
- 秋晴れの日のゴルフ。
- カフェのノート、スケッチブックの絵、ブログ展その3。
- 本日ジョケラさん初日。
- 明日からジョケラさんの展示会 高宮あけみ展のご来館有り難うございました。
- 別れ。
- カフェのノート、スケッチブックの絵、ブログ展その2。
- 講演会「良寛さんに学ぶ」が無事終了した。
- カフェのノート、スケッチブックの絵、ブログ展その1。
- 来たる11月7日からラッセル・ジョケラさんの展示会 晩秋の花 近隣のコハクチョウ
- 先週末の種々。
- 高田高等学校創立150周年の秋 いたくら桜園 近隣の秋。
- 「ラッセル・ジョケラ木工展」 可愛いお子さんとおじいちゃん。
- 本日今年最後の同業ゴルフ。
- 今夜のコンサート カッチーニの「アヴェ・マリア」。
- 信州は須坂で江戸時代の料理を食べる 満月、私達の奇跡。
- 失った1枚 栗。
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