2012年1月
この雪に震えるばらの一花あり小さき御身色赤くして
連日の大雪警報。毎日恐れているが沿岸の上越市大潟区は今のところ豪雪を免れている。雪はおよそ4,50センチで助かる。
ニュースは山間部の凄まじい雪を知らせている。医療や学校まで閉ざされる状況では、一刻も早い自衛隊による救出が待たれる。
この雪に震えるばらの一花あり小さき御身色赤くして
敢えて雪の庭に咲くのは花なりの訳があったにちがいない。半日、切るのをためらったが夕刻に切った。家ではたちまち部屋を華やかにしてさすがだった。
育てている妻によるとへりテージ(遺産、伝統)という名ということ。
普通こんなに赤くはないらしい。
居間は暖かくて弱りも早い。明日は少々寒いが廊下へ移ってもらおう。翻弄しているようで、何か申し分けない感じもする。
連日、実家の両親の介護用件で忙しい妻は、見つけてくれてありがとうと言ったが。
追加:テレビで記憶術の番組を見終わると、急に妻がお目出度うと言った。午前零時を回っていて70才になっていた。セーターを頂戴した。では、ばらは自然がくれた祝いかもと考えてみた。70はいっそうほろ苦い。
陶齋の書簡 脇付のいろいろ 作家・ファンのエッセンス
このたびは父に宛てた齋藤三郎'(陶齋)さんの書簡を取り上げてみました。
氏は教養の人だけあって手紙の内容、用語とも味わいがあります。絵が添えられているものもあり、和めます。
以下はいくつかある手紙の一部です。候文で書かれた内容は、近況報告と支援など様々な相談がみられます。時代は昭和20年代中頃。窯を築き土を求め大量の薪を用意する、展示会のための手間と旅、水準を維持するためのお付き合い、そして税務署のことまで、、、。
戦後の困窮を引きずる時代にあって芸術活動はあらゆる不足と直面せざるを得なかったに違いありません。父とて無一文になっての満州からの引き揚げ者、決して楽ではなかったと想像されます。その支援に応えるべく、陶齋の文中には精進という言葉が随所に見られます。
二人は互いの切実な事情に配慮しつつ緊張感ある作家・ファンの関係を続けていたと考えられます。電話やメールと異なり、手紙には込められた思いが鮮やかに伝わるのを感じます。
上掲手紙の末尾部分。第四銀行の個展を知らせている。脇付は玉机下。
※後刻の追加です:文中の日付「念九」は二十九日のようです。
手許の漢和辞典「念」の⑤意に「廿(ニジュウ)の俗音が念に近いので廿の代わりに用いる」とありました。念と廿、中国語の発音が類似しているようなのです。
手紙の末尾部分。追伸に高浜虚子、星野立子両氏の名が見える。脇付は玉案下!
上掲の手紙の後段は特に興味深く思われました。焼成が終わりいよいよ窯出しの知らせですが、一番手になりたい父への気遣いが微妙です。不勉強な自分に読めないカ所がありましたが以下試しに記してみます。
髙田の人達には窯のことを何も話し
いたし居らず 人は不来のはずにて候
ただ煙が出候へば人達は見て来るや
も不知○候 煙はカクシ様に無く候
言葉、器の絵、署名、文字の起伏とリズム、手紙といえども立派な芸術ではないでしょうか。
神田の製図学校とは? 災害的な豪雪
さて昨日書かせていただいた花札を制作された方が仰った製図学校(図面学校→製図学校)については全く知りませんでした。インターネットを調べてみると中央工学校という学校が出ていました。
場所が神田だったこと、女子製図科が設置されていたことから、同校ではないかと思いました。
ちなみに以下学校の沿革の一部です。
●1909年(明治42年): 即戦力工業技術者育成を目的として、東京市神田区一ツ橋通町20番地に「中央工学校」を創立。建築・機械・電工の3学科を設置。
●1918年(大正7年): 女子工業技術者育成を目的に女子製図科を設置。実践的な技術者を輩出して教育界・産業界から注目と期待を集める。
※田中角栄は1936年(昭和11年)、同校土木科の卒業生のようです。。
早くから女性に開かれた技術教育。そこへ飛び込んで行った人が当地にもおられたとすると何か元気づけられます。次回の訪問でまた続きをお聞きしてみたいと思います。
さて当地上越市大潟区の昨晩の積雪は、庭で46㎝でした。本日は小雪が降ったり止んだりしましたが、積雪の高さは昨日とほとんど変わりなく見えます。
ニュースが伝える内陸の豪雪はすでに深刻な災害レベルです。昨年から見られる季節進行の遅れを考えると、心配です。
週末の雪は一休みしてくれますように。インフルエンザが流行してきました。
手作りの花札 製図学校 お前も運転してみろ
下の写真は、過日紹介させていただいた患者さんの手作り花札です。作ったのは80才代後半のお年寄り(おばあさん)でした(いつ頃使ったのかはまだ聞いていません)。
活発な方でしたので、昨年夏、圧迫骨折の痛みで寝たきりになりかかた際のショックと悲観は、見ていられないほどでした。訪問診療によって骨粗鬆症の注射を続け、幸い今ではなんとか居間へと歩かれるようになりました。
そんな折りに見せていただいたのがご本人手作りの花札です。絵や厚さなどの形態があまりに良くできていて驚くと同時に、如何に作ったかに大変興味がありました。
一ヶ月前の訪問ではケント紙にピースの中箱の紙を貼り、絵は自分で描いたとお聞きしていました。しかしそれにしてもである。
本日訪問すると傍らに製図道具と材料が置かれていました。コンパス、からす口、雲形定規、そして切り紙などです。これは一般におばあさんが持つ物とは違います。
お聞きしたのは花札の作り方の続きでした。今回は紙は一般のケント紙三枚では厚すぎるので、二枚を貼りその上にピースの中箱の紙を貼るとほど良い堅さになる。曲線は出来るだけ雲形定規を用いた。線はペンとからす口で引いたなどと伺いました。
道具も方法も素人の域には思われませんでした。どうしてこんなことが出来るのですか、とお聞きした所、以下のようなお話をされました。
自分の父はこの土地の自動車屋だった。私が高等小学校を出ると父は自分を東京の製図学校へ進学させた。高等女学校は時間の無駄、花嫁学校みたいなものだからという理由だった。
神田の図面学校で教えてもらった方法で、後年子どものためにこんな花札も作った。父は比較的若く亡くなったが、学校時代に自動車に乗せてもらったことがある。その時父はいきなり私に、お前も運転してみろと言い出し、びっくりしたことあった。父は進んだ人だった。
以上がお話の概要です。私自身、からす口も実際使ったことがありません。もっと詳しくお聞きしたいが時間がありませんでした。しかし製図学校といい何もかも驚きです。もしかしたら花札のことでは、お父様のことをお話したかったのかな、とも思いました。
普段お互いに黙っていればただすれ違うだけ。しかし話をお聞きした場合、驚くようなことを耳にすることがあります。かって傍らで聞いているお嫁さんが「知らなかった」と仰ることもありました。
お年寄りは繰り返し同じ話されることが多い。しかし最も大事な事は胸にしまっているのかもしれません。私たちと同じように。
心身を休めながら付いて行く冬
今日の上越市大潟区も降られた。音もなく、時にサラサラと静かに降る。今21時をまわり、若干風が出て降ったり止んだりしている。
二階廊下にある大正時代の窓から見た今夕の庭。
見ている方向が少し違うが同じ窓の春。
季節によって花園とモンスターワールドの区別がある。
先日雪は一瞬に世界をモノクロにする、と書かせていただいた。あるいは絵画的とも。その雪は一線をこえるとたちまち今度はモンスターとなる。
午後の訪問往診の車のすれ違いは、まだ支障が無かった。しかしもう一晩降れば、あの除雪車が道路の両側に押した雪の壁で新たな難渋が始まる。心身を休めながら付いて行くしかなかろう。
今日の貴重まんさくの花 海霧 スズメ
夜半から朝にかけて降雪があった。20㎝ほどで止み午後半ばから薄陽が差した。外気温は0℃、風もなく夕刻には気持ちよく晴れた。
窓辺の手すりに置いた餌場にスズメ。三年目で初めて来るようになった。
窓から20㎝足らずの位置だが、カーテン越しなので安心している様子。
春、我が家の軒下の営巣はムクドリに大半が占領されてしまった。割を食っているスズメには特別な思いがあるので、冬だけでも助けてやりたい。見えないが右側にもう一つ餌台がある。
在宅回りの帰りに寄った四ツ屋浜、通りから30秒で来れる。
犬と散歩の人は知人。右手の海は立ちのぼる霧のためよく見えない。
これほどの季節照準はあろうか「まんさくの花」
秋田県は横手、日の丸醸造。
午前に懐かしいO先生から寒中見舞いであろうか、お酒が届いた。純米吟醸 生原酒 中汲みという貴重なラベルだった。栗駒山の伏流水で作ったというお酒。栗駒山は7年前に仙台で亡くなった妹が大好きだった山だ。
かって上越で美術教育の教授をされた先生の教養はあまりに深く、恐くて覗けない井戸のような感じを受けていた。しかも謙遜と遠慮、さらにユーモアのセンスも同じくらい深かった先生。
当地を離れて三年、上越に何か火が消えたような淋しさを感じていた。本日、突然このようにされるのは先生がよく仰っていた「仁義」なのか。それもお元気な証拠であり、しみじみ有り難く思った。何をお返しすればいいのか、幸せな悩みだ。体を大切に頑張らなくてはと思った。
再びの寒波 そして半だるまとは
晴天に恵まれた日の昨夜半、静かだった夜空が不気味にヒュー、と鳴った。今年二回目の冬将軍の訪れを告げる使者の声のようだった。
出かけた先で見た赤い壁の建物。雪の日の風景は一種絵のように見える時がある。
今度はどの程度の寒波なのだろう。先週末テレビが知らせた上越地方の気象情報は今週は毎日雪ということだった。先週末そのことをある患者さんと話したら「大したことないかもしれませんよ“半だるま”ばっかりだから」、とおっしゃった。
初めて聞く“半だるま”とは、以下のようなことだった。
点々と降る雪が付いた雪だるまのマークは本降りだが、裸の雪だるまや雲が付いているのは“半だるま”。豪雪をもたらす本降りより弱めのマークということらしい。これは患者さんが思いついて、この方の家だけで通用している言葉だと仰った。恥ずかしそうに話されたがなかなかのものだと感心した。
どうか今週はその半だるま程度にしてもらいたい。
寒中にこの暖かさ 釣りする親子の詩情
いわば厳冬の真ん中でこの穏やかさ。今日の車外温度は夕刻で9℃、無風で雲もない好天だった。来週から再び雪模様の予報。そのことが分かっているように今日の海岸は散歩や余暇の人が多かった。
夕刻の海で釣りをしていた親子。名乗って写真のモニターを見てもらい、ブログに載せてもいいですか、とお尋ねした。お父さんはにこやかに、いいですよ、と仰った。眩しいほどの詩情だった(上越市柿崎海岸)。
「アート&アーティストの底力」新潟展(1月14日~22日)が本日で終了です。出品した拙油絵「いもけんぴ」が期間中に売れたと聞きました。震災へチャリティーされます、お買い上げ下さった方、まことに有り難うございました。
今夜の平清盛に佐藤義清(のりきよ:西行)が出た。立派な武者ぶりに驚いた。
倉石隆が遺された画集、パウル・クレーの芸術 そしてパイプ
昨日は倉石隆の遺品の一つ画集世界素描大系Ⅰ~Ⅳを記載致しました。本日は同じく遺品からパウル・クレーの画集(展覧会図録)を氏が使われたパイプを入れた写真で紹介させて頂きます。
パウル・クレーの芸術 1993年 愛知県美術館・中日新聞社発行。
268作品をも掲載する画集は名古屋、山口、東京を巡回した展覧会図録。
倉石氏愛用のパイプは木靴の中。
つねに出発する画家、パウル・クレー(1989年 -1940年)。伝え、現し、批判し、感覚し、訴え、試み、克服し、残す、、、。そして表現も多様ですが一貫されたのは休みなき活動です(ナチスの時代を除いて)。最も多い年の制作は1000点をゆうに超え、ガーゼや新聞にも描いたといいます。
当カタログの鋭敏な作品には触発の力があり、素朴な作品には心慰められます。
ところで樹下美術館のホームページにご来館者の「お声」が掲載されています。ある方の以下の「お声」にパウル・クレーの名が出ていました。
「戦前後の高田のことをタイムスリップして懐かしく、レンブラントを想起させられた倉石隆先生、パウルクレーの色の奥様。食糧困難の学生時代、大町中のK先生とお邪魔したことなど 次々湧いてきて尽きません。なんと美への心の栄養を頂けたことか。唯々感謝あるのみです。
上越市 男性」
パウル・クレーは多くの人に愛されたのですね。この本も来春3月開館からカフェに置かせて頂きます。
倉石隆が遺された画集、世界素描大系Ⅰ~Ⅳ そしてルノアールの素描から
このところ齋藤三郎に続いて倉石隆氏の図録の作業をしています。40数点の油絵とともに素描(デッサン)も掲載を予定しています。
氏は素描が大変得意で、太平洋美術学校時代に毎年表彰されていた、と奥様からお聞きしました。
今日は倉石隆の遺品で以下のデッサン集を取り上げ、図版にあるオーギュスト・ルノアールの作品に関連した事柄を少々記したいと思います。
世界素描大系Ⅰ~Ⅳ 昭和51年第3刷 講談社発行
函サイズ縦横奥35,5×28,8×5,5㎝
下の写真は当画集の「第Ⅲ巻フランス13世紀ー1919年」からルノアールの1ページ。
第Ⅲ巻には50余人の画家による229作品が掲載されている。
ルノアール(1841-1919年)について11作品があります。
上の写真は下記作品のデッサンです。
「ブージヴァルのダンス」 ボストン美術館 179.1cm×96.0cm 1883年制作。
当作品はルノアールのダンスの三部作の一つです。他に「都会のダンス」「田舎のダンス」があり、両者は同じサイズでオルセー美術館に並んで展示されているそうです。
「ブージヴァルのダンス」の女性モデル、後のシュザンヌ・ヴァラドンはルノアールの恋人といわれていました。ヴァラドンはまたサティ、ロートレック、ドガ等にも愛された恋多き女性です。
ヴァラドンはモーリス・ユトリロを生みます。ユトリロの父はルノアールではないかといわれましたが、公にはされませんでした。ルノアールに画才を発見されたヴァラドンは画家になります。
過酷な運命に翻弄されたユトリロの展覧会は一昨年新潟県立近代美術館で開催されました。
●それにしましても「世界素描大系Ⅰ~Ⅳ」は見応えのある大著です。来春から樹下美術館のカフェに置かせて頂きます。後日、倉石隆が遺され樹下美術館が収蔵している他の画集についても掲載致します。
可愛い禁煙記念ホルダー
タバコを吸う人が少なくなった。
今日午前の診療で60代の方とたまたまタバコの話になった。止めてどのくらい経ちましたかとお尋ねしたところ、キーホルダーを取り出された。
かって禁煙に踏み切ったころお孫さんに「おじいちゃん頑張れ」と言ってもらったホルダーだという。わずか3~4㎝ほどの小さなタバコのフィギュア-は、お孫さんの気持ちも伝わってとても可愛かった。
日本に於ける平成21年の成人男子の喫煙率は38.9%。ピークだった昭和41年の83.7%と比べ随分と禁煙が進んだことがわかる。特に60歳以上は27.8%で大幅に減った(日本たばこ産業の調べ)。
ただ減っているとはいえ30代の男子を中心にまだ世界的には高く、女性は男性の半分以下ながら横ばい。特に若い女性の減らない喫煙は世界的に深刻なテーマです。
タバコは麻薬、そしらぬ顔で売る政府も悪い。お孫さんではないですが、禁煙に向けて周囲の温かな支援が必要なこともあろうと思われます。
海沿い山沿いの雪 38(さんぱち)豪雪のこと
一般に海沿いは山沿いに比べて雪が少ない。今年はその違いが顕著に現れていて、16日は上越の山沿いで280㎝に届いたため市に災害警戒対策本部が置かれたほどだ。
もう頻回の雪下ろしが始まっているという、にわかに信じられない状況だ。
いつまで続くか分からないが、ほとんど雪がない当院の駐車場の様子。
ところで当地海沿いでも雪下ろしは昭和30年代や60年前後の豪雪で経験している。中でも、38豪雪と呼ばれる昭和38年(1963年)の雪は出来事としても伝えられる。
雪は学生だった私が冬休みで帰郷した直後から降り始めた。あちらこちらで立ち往生した列車内の宿泊や炊き出しの様子が途切れがちな報道によって知らされた。
その年の町のたよりに「早く雪下ろしをしましょう」というような知らせが載った。記事の写真は我が家だった。山のような雪を乗せた木造三階建ての家は異様な光景だったと思われる。高い屋根に上がった職人さんたちのことが心配で仕方がなかったと後々まで母が言った。
豪雪によるたびたびの停電も印象に残る。帝国石油によって可能になったガス灯を点けたが、心細さを伴った小さな灯りがよみがえる。
その帝国石油の社員として秋田県から来られたご夫婦にその時の話を聞いたことがある。秋田の雪は非常に軽く、みな風で吹き飛んだしまう。しかしこちらへ来て初めて雪が重いことを知ったという。
豪雪のころ、自分たちは借り屋住まいだった。大家さんはお年寄りで、私たちに雪を下ろしてと言った。いざ屋根に上がったが恐くて仕方がなかった。一緒に上がった奥さんは長女を身ごもっていたので生きた心地がしなかったと、振り返られた。
降り過ぎる雪への忍耐にも限界があろう、行政のフル活動が求められている。
平清盛は見る予感 そして西行は
平清盛2話を見た。王家という言葉遣いあるいは汚いという非難、、、はなから注文が出た。
ひごろ事あれば「いずれ歴史が照明する」と言いつつ、後々色々に解釈される歴史。このたびのことなど、どちらも正解で決着してもらいたい。
ただ衛生は良かろうはずはなく、疫病なすがままの時代だった事だろう。町も人もいわゆる「汚い」と言ったほうが当たっていよう。 そもそも貴族と勃興する武士の話だから、清盛たちは汚く見えたほうがいい(それにしてもあんなに野放図だと分かり易くて新鮮だ)。
ところで、登場人物に佐藤義清(のりきよ:西行)がいる。「重代の勇士」と言われる西行が如何に僧となり寂寥の、敬愛の歌人として描かれるのか。あるいは清盛とどのように再会をするのか。物語であってもいい、興味を惹かれる。
天地人は景虎への興味から続いてよく見た。おごうはほとんど見なかった。平清盛は見るよう気がする。
「アート&アーティストの底力」新潟展
第三回東日本大震災&新潟・長野県境地震など復興支援チャリティ
「アート&アーティストの底力」新潟展 が本日から以下で開催されます。
●期間:1月14日(土)~22日(日)
●会場:新潟市港南区旭2-1-4 「gt-moo galllery」
(電話 090-3145-4552)
※亀田駅西口の駅前通り、コメリの向いにある白い建物の奥の部分が会場です。
※小品ながら力作が出展されています。足許が悪い時期ですが、良い日を見てお出でください。
※拙生も油絵「いもけんぴ」を出品しております。
小品を持ち寄ってのチャリティ展、県内外おおぜいの出品者リストです。
昨年の柏崎市、長岡市に続いて新潟市での開催になります。
(クリックで大きくしてご覧下さい)
事務局堀川紀夫さんのブログから、昨日終了した会場準備の模様です。
雪のち晴れ 上越市柿崎区のマリンホテルハマナス
列島はどこも寒かったと夜のニュース。
上越市頸北地区の沿岸も午前から午後途中まで断続的に降った。
その後は夕刻に向けてよく澄みよく晴れた。
上下浜海岸・マリンホテルハマナスは雪に映え、一帯は先日とはまた異なる美しさだった。
モノクロの冬を少しでも鮮やかに。
今朝から上越市大潟区も一面の雪世界となった。風景は魔法がかけられたようにモノクロとなり、降ったり吹雪いたりすれば視界もままならない。
水田の県道は除雪がよいので助かるが、吹雪けば地獄。
今日は4カ所の往診や訪問。
心臓が悪い94才のおばあさんが「雪んなか大ご苦労さんです、起きますかね」と仰った。ああお元気だ、と思った途端、おばあさんの言葉に鮮やかな色彩を感じた
元気とは色彩を帯びていることなのだ、モノクロの冬を少しでも鮮やかに生きなければ。
楽しい鳥のテンポ
昨日、大潟水と森公園の鵜ノ池の後で隣の朝日池に行った。池のふちに車を止めるのにあまり大きな音を立てないように何となくそっとドアを閉める。
向こうに鴨などの集団があって、中から真っ黒な鳥が三羽こちらに向かってきた。テンポよく歩き始めたが、次々にシャーベット状の薄氷を踏み外してしまう。それがシンコペーションのように見えて愛嬌があった。
さあ行きましょう。
インターネットには鳥の情報が沢山ある。この黒い鳥はオオバンというクイナの仲間でよく見かける種類のようだった。当ノートを書くうちに鳥を見るようになった。専門的な人のレンズは800㎜もあり、三脚もすごい。私は200㎜の手持だが、身辺の鳥で十分楽しめる。
今日見たもの 見なかったもの
本日目覚めたのは10時過ぎ、目覚ましを見てびっくりした。仕事のはずなのに!あせってカレンダーをみたら祝日だった。自分はしばしば祝日を知らずにいて、慌てたり幸運だと思ったりする。
急に気が楽になって遅い朝食を昼食として食べた。移転開業されソフィーさんのパンに頂き物の濃厚なイタリアの蜂蜜をつけて食べた。私のパン類は何と言っても食パンが一番、やはり美味しかった。
午後水と森公園に行った。気になる昨日のハクチョウの場所を見たが鳥は居なかった。大丈夫なんだ、と一応ほっとして歩いた。好天のせいで一時間少々の公園、知っている人たちと出会ったが、みな笑顔だった。
昨日記した高橋玄洋氏の掛け軸「仏はつねに」を出した。
新潟で求めてから25年、辛かったが若かった時代が懐かしい。
西洋の風景のようだった(行ったことがありませんが)上下浜。
今夕のマリンホテルハマナス。
夕刻、期待して行った上下浜の風景はやはり素晴らしかった。見たものをどんどん忘れるようになって、写真は有り難い。
夜は妻のテレビを途中から見た。黒沢監督の「生きる」だった。テレビで二度目だがあらためて素晴らしい映画だと思った。
椿三十郎を学生時代に見たことがある。詳しくはないが、大宣伝、巨費などとなって氏の映画はつまらなくなったのではないか、と話しあった。
夕焼けを見て「美しい」という渡辺さん(左:志村喬)。
解説の山本監督に映像遺産と述べられた通り、
脚本もカメラも俳優さんも照明もみな素晴らしい。
昔は二度と帰らない、しかし帽子は格好いい。
先日見た昭和20年代の映画「君の名は」にも役所を批判する台詞があった。事をしてはいけない所、と述べられていたようだった。「生きる」はそれが見事に描かれる。素晴らしい人も居るはず、という祈り?は今も昔も変わりない。
色々見たり歩いたりした祝日だった。自分には珍しい生き物を池で見たので明日記してみたい。
小雪降る蘆の入り江の白鳥は何処も行かずただ添い合へり。
小雪の日曜日。雪が少なく県立大潟水と森公園は楽に歩ける。枯れ蘆に落葉樹の木立が静かだった。
岸近くにハクチョウが二羽はねを休めていた。一羽はコハクチョウ、一羽はオオハクチョウの若鳥のようだった。種類がことなる者同士が一緒に居るのは普通だろうか。
小雪降る蘆の入り江の白鳥(しらとり)は何処(いずこ)も行かずただ添い合へり。
二羽は行き帰り同じ場所に居た。オオハクチョウが手前のコハクチョウを見守っているようにも見えた。この時間、普通ハクチョウたちは食事のために田んぼへ行く。仲がいいだけならいいが、昨年のこと もあり少々心配だった。
夜、妻が本を読み満を持して臨んだ平清盛は中身がいっぱいだ。“遊びをせんとや生まれけむ”。梁塵秘抄も満を持して歌われた(やや歌われすぎたかな?)。人物達は妻が要所を説明してくれるので分かりやすかった。
昭和60年前後、ひどく孤独でキツかった時代。ある小説の主人公の回想で初めて梁塵秘抄に出会った。その頃新潟市のイタリア軒の画廊で、同抄の一節にある以下の歌の軸を求めた。
- 仏は常にいませども、現(うつつ)ならぬぞあわれなる、
人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見え給ふ。
素朴な地蔵の絵が添えられた軸は脚本家・高橋玄洋氏の筆だった。居間に掛けて随分慰められた。以後この歌にもよく出会った。梁塵秘抄は時期を置いて繰り返し流行るのか。
スケールの大きさで「平清盛」はよく見られるのではないだろうか。
上越市大潟の雪 上越市の急務
上越市大潟区の雪は降っては止みを繰り返している。幸いなことに今のところ積雪は5㎝ほどで大変助かる。
本日の夕刻、終了間際は少々大変だった。往診したおじいさんは入院が必要な状態だった。炎症反応が高度に上がって猶予が無い。しかもおじいさんは在宅で娘さんの介護もされている。
近隣に嫁いているもう一方の娘さん(妹さん)と連絡が取れない中、様々な方たちにお世話になった。お宅から帰って病院医師に病状を説明して入院を前提の受診了承を得た。しかしお宅に入院の話を告げようにも電話はずっと話し中。おじいさんは何とか電話に出れるはずだが、急いで看護師に家に向かってもらった。
着いた看護師から、ケアマネさんに連絡が取れヘルパーさんも駆けつけるよう手はずをつけた、家の受話器は外れていた、と連絡が入った。時間がどんどん過ぎて担当科の外来から救急外来へ受診が変わる時刻となり、紹介FAXをそちらに送った。
連日の処置が必要な娘さんの対応も急がれる。かかりつけの病院に電話すると医師は入院の適切な約束をしてくださった。
娘さんの入院対応をお宅に電話するとヘルパーさんが出た。ケアマネが居ます、と電話が代わった。ふたりとも非常にハキハキと応対され、嫁いだ娘さんもこちらに向かっているということだった。
明日は土曜日で関係者は休日体制となる。その直前、金曜の夕方という切実な時間に病院医師たち、病院連携室の担当、ケアマネ、ヘルパーの方々には時間を押して対応していただいた。皆様には感謝に堪えない。
夜、妹さんから無事入院したと連絡があった。明日から姉さんの入院もあり大変だ。ご自分も大切に、職場の理解や協力も得て、とお伝えした。
上越地域はまだまだ医師数が絶対的に足りない。特に病院医師は気の毒なほど忙殺されている。今回ある病院で実はきわどい場面もあったが、何とか乗り切れた。安全や安心を言うなら、上越市には病院の医師不足克服ほど必要な課題はないだろう。
※文中のご家族の立場や疾患などは変えて表現させていただきました。
奉公 その3:私は自分の名前が好きです。
年末からその1、その2と奉公のことを書かせていただいた。普段から、おばあさん達にはお生まれはどちらですかと尋ね、おじいさんには兵隊や杜氏に行きましたかなどと尋ねている。
お話を聞くとその方がぐんと近づくようで理解が深まる。また何かとウブな自分には視界が広がってためになる。
以前あるおばあさんに奉公をお尋ねした所、淡々と話されたのは以下のような事だった。
「私は山の生まれです。そこはイワナやカジカが獲れる良い所でした。ただ家では自分が生まれる前に5人も子どもが死んだようです。昔はよほど具合が悪くならないと医者にみせませんでしたし、医者のいる町も遠かったんです。
父によると、容態が悪るくなった子どもを背負って町まで歩いても、医者に着く前にみな背中で死んでしまったそうです。
ところで親戚に90才まで生きたクマという人がいたようでした。それで私が生まれると、もう死なないようにと父がクマという名前を付けたと聞きました。
私は父親に可愛がられたと思っています。雪が降ると父は学校まで背負って歩いてくれました。頭からツットをかぶせられ、父の背中にしがみついていたことを覚えています。
小学校を終えると奉公が話題になりました。親は反対しましたが、奉公に行った近所の人がみなきれいになって帰るので私も行ってみたいと思いました。東京へいきましたが、ひと冬で止めさせられました。言葉が悪く、オレオレなんて言ってたせいでしょう。
後に結婚すると夫は私の名前を嫌って、変えろと何度も言いました。でも変えませんでした。私はクマという名前が好きなんです」
以上切なくも胸打つ話でした。それにしても次々と背中で亡くなる子ども。親はどんなに悲しかったことでしょう。背負って医者まで歩くのは弱った子どもと過ごす最後の別れの時間なのでしょうか。あるいは助けられないことを詫びる道中だったかもしれません。
途中で家へと引き返す父の気持ちはいかばかりか、考えただけで胸が締め付けられます。
一家は30年近く前に町場へ越したといいます。来て良かったと何度も仰いました。今は昔の物語でとうに便利な車の社会になりました。
私はクマさんのお父さんが歩いた道を知っています。雪が消えたら行ってみようと思います。
北ぐにの波に桜の色見えて雲に龍かな正月の浜
年末30日に末期癌の方の看取りがあったが、その後は静かに過ぎているようだ。
上越市の頸北地域では一月元旦は穏やかな日になることが案外ある。いつぞやは坂田池湖畔へ母を連れて行き、リハビリの散歩をしたこともあった。
昨日2012年の元旦もそこそこの一日となり、午後3時すぎから柿崎海岸を歩いた。
柿崎の海は季節風が止んで3,4日すると、西側に平坦な渚が広がる。
そこは大きな潮だまり様になり、少しでも夕陽が差すと波の出入りがきれいだ。
昨日も一時桜色になった。
普段縁起はほとんど担がないが、どうなのかな、という夕刻だった。
篠崎正喜さんから届いた新年の絵
昨年末に画家・篠崎正喜さんから頂いたメールに一枚の絵が添付されていました。
私どもが年賀欠礼になっていたのでご挨拶にお届け頂いた。
色鮮やかで、人美しく影はやわらか。空澄み渡り動物は愛らしく、ガラスが懐かしい。
昨年のウサギが時を惜しみ、今年の龍がウクレレ?を弾いている。
穏やかな希望の光と音の中で、永遠の篠崎美人は明るい眼差しで遠くを見ている。
様々な職や人生経験をされた氏。お仕事の傍ら在宅で長くお母さまの看病と介護を重ねられ、一昨年立派な看取りをされています。
楽しい篠崎ワールド、益々ご活躍が期待されています。篠崎正喜さんホームページ http://homepage2.nifty.com/m4s/
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- 秋晴れの日のゴルフ。
- カフェのノート、スケッチブックの絵、ブログ展その3。
- 本日ジョケラさん初日。
- 明日からジョケラさんの展示会 高宮あけみ展のご来館有り難うございました。
- 別れ。
- カフェのノート、スケッチブックの絵、ブログ展その2。
- 講演会「良寛さんに学ぶ」が無事終了した。
- カフェのノート、スケッチブックの絵、ブログ展その1。
- 来たる11月7日からラッセル・ジョケラさんの展示会 晩秋の花 近隣のコハクチョウ
- 先週末の種々。
- 高田高等学校創立150周年の秋 いたくら桜園 近隣の秋。
- 「ラッセル・ジョケラ木工展」 可愛いお子さんとおじいちゃん。
- 本日今年最後の同業ゴルフ。
- 今夜のコンサート カッチーニの「アヴェ・マリア」。
- 信州は須坂で江戸時代の料理を食べる 満月、私達の奇跡。
- 失った1枚 栗。
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