2011年5月
デミタスで珈琲を1
寒くて一枚余計にはおらざるをえなかった一日でした。
お陰様で、5月からの樹下美術館はお客様が少し増えているように感じられて、感謝致しております。
展示作品、カフェ、庭、自然、など視覚と少々の味覚をお楽しみ頂ければ、と思っています。
左:ローゼンタール(ババリア・ドイツ)1920年ころ
右:ロイヤルドルトン(イギリス)1920年ころ
器の裏、窯印もご覧下さい
さて、今年のカフェはドイツ食器を加えていましたが、6月12日(日曜日)からデミタスでのサービスも始めることに致しました。
デミタスはフランス語demitasseで→デミdemi(半分の)-タスtasse(カップ)ということのようです。
デミタスはミニチュア感やデリケート感があって、また楽しめます。カップをお選び頂きますと、およそ二杯分のポットでサービスをさせて頂きます(大きめのものでは一杯半ほどの時もありますが)。
また食事メインの場ではありませんのでエスプレッソでなく、一般の珈琲にさせてください。料金は略々デミタス2杯の珈琲で400円の予定です。
ハンドルを指先でつまみ、小ささをお楽しみ下さい。ひと味違った珈琲になろうかと思います。器の年代は19世紀後半から20世紀中ごろ(ミットセンチュリー)までです。およそ10年前から5年ほど集めました。当初、美術館のカフェで使うことなど思ってもみませんでした。
明日はほかのカップをもう少し掲載致します。
早く逝きたい 自然な長生きを
「先生、早く逝かせて」。初めて訪ねるころの超高齢者が口にされることは希ではない。この場面にはいつも悩まされ、「また言っている」、とそばのご家族が叱るように仰る。
前なら、“二十歳で戦死した兵隊さんたちのことを思えばもったいないですよ” “事故や病気で若く亡くなった方もいるじゃないですか” “仏様がもう少しそっちに居てと仰ってますよ”などと言っていた。
その後理屈はダメだと思い、がらっと変えた。まずは「そうですよね、長生きも退屈なんですよね」など同情から始めて見る。それから伺う度に、
「子どもの頃はどんな風に遊びましたか」、「子どもも田んぼを手伝ったのですか」、「昔の浜はイワシやカレイが沢山とれたそうですね」、「奉公に行ったことがありますか」、「新婚旅行はどこでしたか」、「東京へ行ったことがありますか」、「寒くないですか」、など答えやすい質問を試みる。
すると死にたいと仰った人が色々話しだす。新婚旅行は無かったと大抵否定されるが、否定は元気な証拠だ。東京が無ければ善光寺は?と聞いてみる。おばあさんなら、実家のこともいい。さて帰ろうかというころ「また来ますよ」と言うとしばしば「ありがと、また来てくんない」が返る。
お年寄りのスイッチは比較的簡単に切り変わる。ご家族が少しでも真似るようになると、落ち着く傾向がみられて前進する。
ところで、この2月末頃から不整脈を悪化させ、連日苦しまれた方がいた。昼夜の往診を続けたあと、一両日かもしれません、とご家族に告げた。まもなく100才になられる方だった。お嫁さんは、薬や飲食のことを心配され、せがれさんは涙をいっぱいためて、お世話になりました、と仰った。
それが、その日を境にゆっくりと回復に向かわれた。往診の日など「先生の前で粗相するといけない。トイレに行く」と這っていって用を足されるという。無口で黙々と自立され、散歩も欠かさない方だった。長生きと気丈をあらためて振り返った。
上越市は介護保険料や重度の要介護者率は全国でもトップクラスという報告がある。財政への重圧は事実だろうし、大震災以後なおさらかもしれない。
しかし、私たちは目の前で苦しむ人や、死にたいと言う人をみると何とか助けたいと思う。苦しむ人を見るご家族の心配も自然に感じる。
今日、心身への気遣いや医療・保健・介護によって、元気に90、100へ長生きが可能になった。ただ超高齢における安易な管類挿入は避けたいし、戸外を促し、事情によって良心的な施設が選べるようになればもっと安心にちがいない。
上越市は合併で日本一人口の多い過疎地になったと聞いていた。介護費用がかさむのもやむを得ない。いっそうの疾病予防と、国費の支援は当然ではないだろうか。
花々は夏の夕べも見頃なり
花々は夏の夕べも見頃なり宵に浮かぶも溶けるもありて
先日、樹下美術館隣接の庭の白花を掲載しました。ほかにも色々な花が日一日と移ろい、いよいよ最も賑や時期を迎えます。
間もなく夏、日は長くなり凪いで、夕刻の庭には昼間とひと味ちがう、ほっとした時間が流れるようです。
オオツユクサ・盛りです ツキヌキニントウ・しばらく続きます シャクヤク・和物、洋物盛りです |
福島県からのお子さんたち そして夏は来ぬ
学校医をしている大潟小学校のPTA誌「あらいそ」。今年から始まったミニコラム絆のスタートに書いて、ということで駐在さんと一番バッターをしました。
福島県から上越市に避難されたお子さんの多くが、新学期から大潟区の小中学校に転校されました。それで福島の友達とのことを書きました。
わずかなスペースをなんとかうめて拙文とし、本日それが届きました。
新たな人との関係は、なにかとこちらの事ばかりを話したくなりますが、ぜひ相手(福島のみなさん)のことも聞いてほしい、一心を書きました。※文中の大潟町→大潟区でした(汗)。
そして本日は地元の保育園で春の健診。小中学校だけでなく、保育園にも10人ほど福島県からの園児が通っていることを知りました。
こうしてみますと、避難された方たちの中に如何に若いご夫婦が多いかが、あらためて分かります。職業のこと、教育、不慣れな生活、、、大変だろうなと思いました。まず何よりお子さんたちが当地でのびのび出来ることをお祈りしています。
どうかみな様頑張ってください。御地の回復、そして時には当地で楽しんでいただければと心から願っています。
卯の花の匂う垣根に、、、♪の「夏は来ぬ」は大潟の人、小山作之助の作曲です。作曲は古く明治29年でした。曲は音階を上げていって高らかに終わります。
このことについて、團伊玖磨氏が随筆集「好きな歌・嫌いな歌」で曲の斬新さを賞賛されていました。確かに季節にふさわしい晴々としたエンディングだと思います。ちなみに以前にも書きましたが、作之助は小生の祖父の兄です(再汗)。
夏を迎える満開の白い花を見ますと、あらため花も曲もいいな-、と思いました。
スズメの旅立ち ナニワイバラの満開 何気ないあの店
今朝はスズメが居たサカキのすき間は空っぽ。足を痛めていたヒナは自由に飛べるようになったのだろう。
彼が過ごした暗くて湿った小さな空間は、一瞬にして未知で壮大で自由な世界へとひらけたにちがいない。
動物は一気に変わる側面を見せる。もたもたしていたと思うとパッと飛び立つ。
それにしても辺りは急に静かになった。雀たちは二番子の抱卵を始めたのだろうか。 巣立ったヒナはまとまってどこかにいるはず、どこだろう。
この花は8年ほど前、新潟市の何気ない園芸屋さんで求めた。
妻がバラに目覚めた第1号の花
ご主人がこよなく花を愛され、どの鉢もポテンシャルが感じられた。
当時二つ三つ花を付けて、背丈は50センチほどだった。
古く何気ないあの店。
大騒ぎもなく、いいご主人の店だった。
頑張れサバイバルするヒナ
昨日5月21日(土)のスズメのことは日にちをまたいで夜遅く書いた。一夜開けて今日も見に行った。足どりがしゃんとして動きが素早くなっていた。猫の襲撃も受けず一晩休息できたのだろう。朝早くからちゃんと給餌も受けたにちがいない。
間もなく親が現れた。ヒナの目の前で地面のものをついばむ動作を繰り返した。親が去った後のヒナは同じようにさかんにあちこちの地面をついばむ。地面には発酵させた私たちの食事の残りがあるらしい。
足は大丈夫らしい、さわやかな感じも親鳥(手前)が来て餌取りの手本を見せている様子
しばらく経って親がもう一羽のヒナを連れて現れた。ヒナは大きく色つやも良い。昨日コナラから飛び立った個体だと考えられる。順調ならばこのようにして育つところを、足のせいか一羽は遅れた。
残されていたヒナは探餌の学習を続け、諦めずに親鳥は給餌を続けていた。それにしてもヒナはよく鳴く。数えてみると一分間に54回鳴いた。親を呼ぶのは必要だが、大きなさえずりは猫や敵に居場所を教えることにもなる。
およそ生き物の成長は危機と背中合わせだ。昨日から見ているヒナは彼独自の忍耐やサバイバルテクニックを持って、この先を生きることが期待される。
自立した鳥は自分が過ごした思い出の場所など覚えてはいまい。私に早くも少々のセンチ。早い親たちは間もなく二回目の産卵を迎えることだろう。
スズメの巣立ち
昨日から診療所の小さな裏庭に二羽の雀のヒナが育っていました。場所は小ぶりなコナラをサカキの茂みが囲む小さな隙間です。親鳥が現れては給餌をしていました。
今日も居ましたので、窓をすこし開けて診察の合間に写真を撮りました。
一羽が親に導かれるようにコナラを上に進み飛び立って行きました。残ったヒナはやや元気がありません。ようやく枝に出ましたが、カメラのモニターをみると右足が痛んでいるように見えました。
右のヒナの右足が痛んでいる? もっと上に行こう 毛繕い |
枝に出てもウトウト よっこらしょ 枝をついばんでみる |
戻っていました。
仕事が終わって見てみますと元の茂みに戻っていました。
ご承知のように、鳥たち(動物たち)はケガや衰弱などでつらくとも表情にだしません。残ったヒナは一見のんびりしている風に見えなくもありませんが、負傷していると思いました。
相当昔の事になりますが、何度か弱って地面に佇むスズメのヒナを育てました。胸の皮膚が裂けていたり、発毛が不十分だったり、巣からの落下などでした。
多くの場合親鳥は衰弱して佇むヒナにも餌を与えようとしますが、猫やカラスも狙っているはずです。
当時の数年間に4,5羽を育てる機会がありました。保健所への届けはしませんでした。最初の一羽は明らかに私の失敗でした。水のかわりに生理食塩水を与えたのが大間違い。小鳥の腎臓は塩分に弱いことを後で知って、とても後悔しました。
ヒナは最初のうち口を開けませんので、クチバシの端に真水を滲ませます。繰り返しますと次第に口を開けるようになりますので→ミルク→小鳥の練り餌へと変えます。給餌は針を取った注射器で行いました。
食べ盛りですから、数時間もすると大いにさえずって餌をねだるようになります。たいてい二三日で容器にしつらえた餌を自らつつくようになります。ぴょんぴよん跳ねる移動から羽ばたきをするようになりますので、大きめの部屋に飛ばして見よう見まねの飛翔訓練もしました。楽しい部屋の飼育はフンの処置も楽しまなければなりません。
10日前後を見計らって放鳥を試みますと、一旦外へ羽ばたきますが、すぐに部屋に舞い戻ります。諦めずにこれを繰り返しますと次第に外の時間が長くなり、開け放した部屋へ出入りをして食餌や休息をするようになります。この後およそ一週間ほどで、朝出て夕方に戻るような生活を続けて、間もなく帰ってこなくなります。それを一応自立としました。
部屋での水浴びや砂浴び。中には早朝、寝ている私をつついて起こし、外へ出すことを催促するヒナもいました。
帰らないヒナは群れに入ったと納得するようにしていましたが、育てたヒナがその中に居ることを確認出来たことがありました。
本で知り、弱いヒナを鳥かごに入れて軒にかけて、親鳥の給餌に任せる方法も試みました。確かに親鳥が給餌に現れましたが、救えませんでした。軽症の場合はうまくいくこともあるようです。
飼育が成功したヒナの可愛さは言葉にできないものがあります。一方救えなかったヒナは本当に可哀想でした。
小室等&佐久間順平コンサートまであと一月をきりました。
来る6月16日に樹下美術館で行われる小室等&佐久間順平コンサートまでひと月を切りました。お陰様でお申込みが予定の60席になりました。
しかしまだご希望が寄せられていますので、予定ホールの陳列ケースを整理して会場を少し広くすることにしました。そのことであと10席ほど余裕ができました。
ご希望の方は樹下美術館 025-530-4155 宛おどうぞ電話をください。
●5月25日、お陰様で満席になってしまいました。大変申し分けなく存じます。
フォークの大御所、小室さんの心あふれる歌声、佐久間さんはギターのほかマンドリンやバイオリンを携えるかもしれません。
季節は進み白い花 作業員の健康を守って
逝きし世の面影 買い直しました
さる5月12日のノートで本「逝きし世の面影」を紹介させていただきました。その本は樹下美術館のカフェにありますが、私が読んだもののため、書き込みや線引きが沢山されていました。
それで新たに図書用に取り寄せました。奥付には2011年1月21日、初版第23刷とありました。小生のが2007年で14刷でしたので、その後4年間で9刷を重ねたことになります。2005年が初版ですから今もって続く人気に驚かされます。早速明日カフェに置かせていただきます。
著者渡辺京二 (株)平凡社 2011年1月21日 初版第23刷 1900円
●しばしば触れられるこどもについての記述を少し拾ってみました。
“私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい”
その子どもたちもある年になると急に大人になる。“十歳から十二歳位の子どもでも、まるで成人した大人のように賢明かつ落着いた態度をとる”とも書かれます。
●風景について江戸の庭、各地の街道や田園の美しについても賞賛される。街道の並木は「日本の道は何と夢のようだろう」と言わしめ、郊外の風景に「至る所に農家、 村、寺院があり、また至る所に豊かな水と耕地がある、、、作地は花壇のように手入れされ、雑草は一本もみることができない」と述べられる。植生については「植物相は無限なほど形態が豊富」と記された。
●芸術(工芸・調度?)では、
“日本の職人は本能的に美意識を強く持っているので、金銭的に儲かろうが関係なく、彼らの手から作り出されるものはみな美しいのです”
“ヨーロッパ人にとっては、芸術は金に余裕のある裕福な人々の特権にすぎない。ところが日本では、芸術は万人の所有物なのです”
●女性について、造形的な美しさよりも以下のような美点がばしば述べられます。
“彼女たちは陽気で、純朴にしてお淑やか、生まれつき気品にあふれている”
※さて、賞賛の嵐の感なきにしもあらずですが、多くの著者が共通して記述していることをいくつか挙げました。江戸時代は過去の過酷な戦乱を懸命に吟味克服して完成させた特異な時代だったのかしれません。これが封建社会なのかと、欧米人が驚くほど、人びとはのびのびとした生活感を漂わせていたようです。
真相はと考えたくなりますし、藩が負うノルマ、度重なる飢饉、年貢の過酷さなどは否めないことでしょう。しかし本書の記載はいずれも先人たちの一面を描写したものとしてやはり興味深く思われます。何かと昔のことばかりで申し分けなく思います。
夕凪の水田 畦道にハマエンドウやジシバリ
二日続けて吹いた風が止んだ。 用事がたまっていてずっと家で過ごした。三時のお茶で寝ている母を車いすに移動させると、はぁはぁと息切れが始まった。何日か食がいい日が続くと、このような症状がでてくる。頂くおまんじゅうなどは控えないと。
念のため注射をして間もなく収まった。3月で母は96才になった。
熱いお番茶と甘納豆を少々出して、好きな石川遼が出るはずのテレビをつけた。
少々遅い午後、美術館へ行った。ゆっくり過ごされるお客様が何組かいらしていた。ボタニカルアートを教えてほしいとおっしゃる方に、まだまだ苦労している最中ですので、とお話した。
5時過ぎて庭の草花に液肥を遣り、終わって芝の草取り。暮れる前後、代掻きが終わり田植えを待つ水田はなんとも静かだった。
明日にでも田植えでしょうか、右端に樹下美術館の影があるのですが。
畦道に可憐なハマエンドウ |
同じく畦道、ジシバリという花らしい |
カフェの本「逝きし世の面影」 パラダイムシフトの2
本日、樹下美術館のホームページでカフェにある本の紹介記事を更新しました。
そのことに関連して、去る5月10日の当ノートで不遜を顧みず「フォルテシモな豚飼い」を紹介させていただきました。今日は「逝きし世の面影」にさせて頂きます。
この本については2007年のある日、翌年から始まるメタボ健診に向けて上越医師会で行われたY教授の講演会で知りました。
名指しで体重管理を疾病予防の門戸に位置づけた新たな健診制度。それは、禁煙の普及とともに生活重視の医療へと一段と舵が切られた重要な節目ではなかったでしょうか。
その日、講演者は冒頭でパラダイムシフトの概念と共に本書を紹介しました。短い紹介でしたが大変気になってすぐに注文をしました。
逝きし世の面影 著者:渡辺京二 発行:株式会社平凡社 2007年 初版第14冊
さて紹介です。鎖国の江戸時代にあっても外交・通商・医療などで次々と外国人が日本を訪れている。彼らによって多くの日記や旅行記、手紙類が残された。本書では、それらを克明に読み江戸中期~幕末、明治初期までの日本人とその生活、町や村落の風景に関する記述がすみずみまで紹介されている。
内容は極めて多岐かつ詳細だ。当時、経済は豊かでなくとも貧困や悲惨はなく、人々は丁寧で人なつこかった。大人はこよなく子どもを愛し、楽しむことを忘れず、何事も創意工夫がなされていた。女性は屈託なく、働く男たちの体は引き締まっている。制度の要にいる武士たちは勤勉で良い趣味を持ち、上級武士の幼い娘などには驚くほどの威厳が見られた。
風景では、地方の農漁村や港はかって見たことがないほど美しく、それは人々の振る舞いとともにまるで「おとぎの国」のようだった、という。はじめは戸惑う外国人でも日本の随所に惹かれ、この国を愛おしむようになる様子も大変興味深い。
時代はついに明治を向かえる。その日を体験した外国人も多い。彼らは嵐のように進行する富国強兵と殖産振興のありさまを目の当たりにする。そして急速に出現する富裕と貧困を悲しみ、西洋化によって喪失されるかつての美しい文明を一様に惜しむのだった。
これらは私たちの同胞でなく欧米の、おしなべて公的な知識人たちの記述になる。一定のエキゾチズムや誇張はあろう。しかし詳細な内容によって異国の如き妄念にかすむ江戸時代が、胸が熱くなるほどのリアリティをもって迫る。
本書をお読みになった方は多分大勢いらっしゃることと思います。1998年に葦書房からハードカバーで出版され、事情によって2005年から平凡社のライブラリー文庫へと変遷した経緯があるようです。1999年に和辻史郎文化賞ということ、2007年にして14刷など、その人気ぶりが伺われます。
604ページですが、どこを読んでも興味尽きません。大震災以後、ある種パラダイムシフトが要請される機運の今日、再読したい一冊ではないでしょうか。
福島県のお子さんたち こじんまりした未来社会
一日中雨がしとしと降った。今日は18度ほどだが、先日の夏のような日があったせいか肌寒く感じる。
午後、小学校1,2年生の内科健診があった。150人も診たので耳が痛む。このくらいだと数人は心臓に雑音が聞こえる。ほとんどが無害な雑音と考えられるが念のため記録して頂いた。
大潟小学校には福島県から避難されているお子さんが30人近く通っている。大潟区の雇用促進住宅(サンコーポラス大潟)が学童のいる家庭に無料で開放されたので多くの皆さんが移ってこられた。
入学以来一ヶ月が経ったが、差別やからかいも無く、穏やかに過ぎているという。一旦他県に移ったが大潟がいいと、戻ってこられたお子さんもいるらしい。様々な事情でしばらく出入りが続くようだ。
津波の被災も絡むが、原子力発電所事故がこれほど広く深く人々の生活と人生に影響を及ぼすとは。
国情を考慮すれば、原子力発電所の推進や再開は軽々しく口外できまい。産業は腕力から離れて、理性・知性によるある種制限のもとで、いっそうこまやかな研究開発へと舵を切るのではないだろうか。その中から新たな価値と本領が生まれることだろう。
懐かしんでもバブルは来まい。一般的な生活も3・11以前より地味になるのでは。今後は、小さめの利益を分け合うややこじんまりした社会へと向かう予感がする。自粛などではなく、自然に。
カフェの本「フォルテシモな豚飼い」と著者 パラダイムシフトの1
樹下美術館のカフェに置かせて頂いている書物をホームページに『本」欄に紹介致してます。色々かまけているうちに、その後の更新を省略していました。間もなくまとめて25冊分を追加いたします。それに際しまして2冊ほど当ノートで紹介させていただきたいと思います。
まずは「フォルテシモな豚飼い」で、次は「逝きし世の面影」の予定です。特に今回は長々となり、申し分けありません、何しろ著者が著者なものですから。
フォルテシモな豚飼い著者:杉田徹
発行:(株)西田書店 2009年8月15日
著者は大学の理系を卒業すると東京写真専門学校に入学し時計を授与されて卒業する。報道写真家として活躍するうち、二つの問いに直面するようになる。一つは「人間としておのれの所以(ゆえん、存在意義)は何か」であり、もう一つは「自分が生きるための国の自然風土とは何なのか」であった。著者はその答えを知らずして人生はあり得ないと思い至る。
老人へのインタビュー、各地の農業体験、韓国訪問などを重ねた後、問いの新たな視点求めてスペインへとおもむく。妻子四人で辿り着いたのはアンダルシアの小都市であり、そこへ2年間身を投じる。
新天地は太陽が疎まれるほど乾燥していた。いつしか育まれる幾多の知己、ともに寝泊まりして知る羊飼いの哲学、けがれなき友情と家庭の絶対価値。さらに「人生を楽しめない奴は馬鹿だ」とまで言い切る生活感が筆者を打つ。そして、彼らの奥底に潜む生を楽しむ主体である強固な“ガーナ”(譲れない自我の意志)に触れる。
二年間の生活は日本の風土的な湿潤を浮かび上がらせた。また自らの所以はそこから得られる楽しみ(自己実現)であろうことの理解に近づく。
帰国後、著者が選んだ職業は養豚だった。手本は彼の地で目の当たりにした羊の放牧であり、特異な飼料は湿潤をヒントに研究された。
宮城県北部の南三陸町志津川の山中に場所を選び、家畜牧場「コルティッホ・ソーナイ」とし、家族4人によって新聞もテレビもない生活が始まる。仕事は軌道に乗るが拡張は控えられた。一家のつましい生計が立つだけの豚がいればいい、と割り切られて今日まで至る。
以上がこの少々風変わりな本のあらすじである。ところで、このたび一家は東北大震災に見舞われた。幸い家族と家と豚は残った。しかし著者は強いショックを受ける。命と国土が為政と原子力発電所によってあまりに軽んじられていたことを知ったからだろう。
著者は、この世の生を奇跡的な貴重として捉えているはず。小生なども多少の意識はあるが、凡庸として生活を連続させているだけだ。しかし著者は常に問いを連続させる。
問いは貴重な生の鏡に照らされる。絶え間ない問答によって新たなエッセンスが生み出されると、それに突き動かされることがあるのだろう。このたびの震災では一瞬にして答が放たれたフシがある。国への深い失望、一家は再び新たな天地を目指すとも伝えられる。
学校時代の著者は短距離の選手だった。何事も素早く執拗な彼は実は不肖私・樹下美術館館長の一つ下の弟です。たまたま彼は人知に恵まれました。「フォルテシモな豚飼い」のカバーに直木賞の井上荒野さんとフォークシンガーの小室等さんが推薦文を書いて下さいました。
また装丁家の桂川潤氏になる書物の顔は何とも微笑ましく思われます。さらに芥川賞の池澤夏樹氏には週間文春に好意的な書評まで頂きました。まったくもって身に余る光栄と言わねばなりません。
さて正直、彼も年です。今までのように痛々しく鏡に従って身を処することには無理があろかと想像されます。出来ればこれまでに頂いた皆様の理解に甘えて現在の仕事を続けてもらいたいと願われます。幸い彼の仕事に興味を持ち、挑戦しようとする若者も現れたと聞いています。また絶品といわれる肉の味は、他に代え難く本人の存在と渾然一体となっているにちがいありません。
当面の不便はやむを得ないことでしょう。せっかくの若者とともに、志津川の地において貴重な主旨を生かし続けて欲しい所です。
休日の樹下美術館でお番茶とカステラ
日曜日の午後、少しお客様の相手をさせていただいた。それから場内のカモグリの椅子に座ってお番茶を飲みカステラを食べて一息ついた。
気候が良くなりましたので数少ない当館のグッズとして
オリジナル・シーグラスチョーカーの販売を再開致しました。
昨日今日、柿崎区上下浜の二カ所でで鯉のぼりを見ました。
ほっとしました。
減った鯉のぼりをもう一度考えた。
鯉のぼりが気になって別の面から続きを考えてみた。どうだろう、昨今、目立つことへの遠慮が強まったことはないだろうか。およそみなと一線を揃える心情で。
鯉のぼりは男の児がいる家で高々と上がっていた。一方でほしくても男の子がいない家や、高価で鯉のぼりが買えない家もあったことだろう。上げない家に羨望が、上げた人には遠慮が働き、次第に控えるようになったのかもしれない。
本日の往診はおよそ10キロを走った。そしてこの連休は人家の鯉のぼりを見なかった。あらためて見るガランとした5月の空に一抹の淋しさを感じた。
さて、話は一回りしました。単純に五月人形の普及、スペースの問題、設置や雨の出し入れの面倒、心情などが重なったというのが理由でしょうか。
(同日に一部手をいれました)
めっきり減った鯉のぼり 現代の子どもに合わない? ひなげし
3連休最後は子どもの日。いつ頃からか鯉のぼりをあまり見なくなった。
今年などはあたりで全く目にしない。良い時期の晴々とした習慣だったのになぜだろう?子どもの数が減ったのは分かるが、、、。もしかしたら出し入れが面倒、武者やカブトの内飾りがメインになった、などで省略されるようになったのか。
あるいは時代の影響、特に子どもたちのライフスタイルの変化がそうさせているのだろうか。そもそもゲームをする、勉強をする、テレビを見る、中には携帯も入ろう。さらにパソコンまで入れると子どもたち(大人も?)は昔より上を、空をを見上げる事が極端に減っていることが考えられる
節句の青空に高々と舞う鯉のぼりVS子どもたちの内向き下向きの日常。残念ながら両者のイメージは容易に結びつかない。イメージが来ないものは止めていく。少々もの悲しく残念だが、思い過ごしだろうか。
かといって使い古した鯉のぼりを川などにびっしり吊すのは、窮屈かつ重たくて、少々野の風情を損ねているように見える。
昨日大潟水と森公園で見た鯉のぼりは晴れやかで新鮮だった。今後は園や学校、あるいは公園などで上げるのがいいのかもしれない。少ないだけいっそう美しかろう。
以前から植えたいと考えていたヒナゲシ。今年は種を買って蒔いた。
あまりに細かいので砂に混ぜてまく。
蒔いて二週間、なにやら芽らしいものが出てきた。
雑草でなければいいのだが、、、。
デッキから見える高速道路は大変賑やかだった。
水が入った水田のさわやかなこと。
本日お一人でお見えになった女性はこのデッキをとても気に入ったと仰いました。
お陰様で連休中の樹下美術館は普段より忙しくしていました。
新潟県立大潟水と森公園 時代はピクニック
今日のみどりの日、正午すぎまでおよそ一時間、上越市大潟区にある新潟県立大潟水と森公園を歩いた。繊細な自然との調和が意識されている公園。園内では多くの人がそれぞれに食事をし、自分たちの時間を楽しんでいた。
“ピクニック”は世界共通の楽しみ。三々五々自由に過ごす人達をみて、時代がゆるやかに変わっていくような感じを受けた。
園内には騒がしいイベントも振る舞いもない。ピクニックをする人たちは自然で自立的で、それだけで国際人?!
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当公園と樹下美術館は車で10数分です。
鵜の浜温泉は車で5,6分の距離です。
久しぶりの海岸 海との関係
私は海が好きで当ノートにもしばしば海のことを書いてきた。
これまで見て来た海は荒れても、なんとか人生の波乱になぞらえ得るものだった。しかしこのたびの震災では行方不明者を含め2万5千人に及ぶ犠牲者の大半を津波が占め、地方を壊滅させ、国の危機に迫った。それは人に対して見せる生成、豊饒、浄化など海の正の側面とは反対の、攻撃的で決定的な負の威力だった。
地震以来、何となく海が鬱陶しくなっていた。今日の午前の晴れ間、思い直して一月半ぶりに出掛けた。海はどこかよそよそしい風をしながら鋭く白い波を打ち返していた。
写真を撮っていると横から来た波があっという間に膝までズボンを濡らした。慌てて下がったが足を取られて尻餅をついた。まだ怒っているのかなと思った。
あの日以来疎まれるようになった海。一方で原発に汚された土地や雨、そして直接排泄された汚染水の浄化を負わされた。そのことでも怒っているのだろうか。
ところでつい先日、樹下美術館で講演された堀口すみれ子さんと冬の荒海の話をした。すみれ子さんは葉山の海辺にすんでいらっしゃる。
「海が荒れるのは風のせいですよ」と仰った。
確かに、そして津波は地殻のせいなのだろう。
台風は眼に見えない大気の変動によるが、予報は正確。
地殻は実体があり、触れる事ができるのに、地震予知は進まない。
古来「海彦、山彦」として海は私たちに幸いなものだったはず。今後その脅威と備えの理解がもっと深まり、海らしい海として再び良い関係に向かうことを願っている。
今日午前9時過ぎの柿崎海岸。釣り人以外閑散としていた。
地震が来たらまず高台のお寺に向かおうと考えながら歩いた
出会い 色絵木瓜文(ぼけもん)の器
はや五月、古くから家にあった木瓜(ぼけ)は、いま濃く赤く咲いている。花の子房を取ると蜜が溜まっていて子どもの頃によく舐めた。
さて当館にある齋藤三郎(陶齋)の作品に木瓜の器が二つある。一つは壺(花瓶)でもう一つは灰皿だ。二つとも少々のストーリーを有しているので記してみたい。
昭和21年、新潟県栃尾(現長岡市)生まれの陶齋は戦地中国から復員した。落ち着いた先は高田市(現上越市)寺町だった。兄・泰全が寺町で久晶寺の住職となっていた。
18才からおよそ11年に及ぶ陶齋の若き日は、人間国宝となる近藤悠三と富本憲吉への師事、ほかサントリー創業者の窯における実践など修行は十分だった。
上越の陶齋は次第にファンを増やしていったが、昭和40年頃まで何度か大阪のデパートで展示販売を行っている。
2007年、樹下美術館が開館したある日、少しお世話になった京都の美術関連の営業マンが独立の挨拶をかねて訪ねて来られた。彼の得意は書画だったが、私はもっぱら関西にもあろうかという陶齋作品の話をした。熱心に館内を見た彼は、わかりました陶齋を探して見ましょう、と仰った。
それから3年余、「出ました」、と電話が掛かって来た。メールの写真で十分だった。送られた実物は真っ白な肌の余白を生かした上品な木瓜だった。
しっかり箱に入り、大切にされた姿で当地へ戻ったことになる。広い関西で陶齋に出会うのは容易ではなかろう。見つけて頂いたA氏の熱意に感謝し、これからも待ってみたいと思っている。
次の灰皿は壺より前のこと、少々遠くの骨董店を訪ねて出会った。店先に「この家のものは全て売り物です」という張り紙があった。上がるといくつか陶齋の作品が出された。いずれも手元にあるものと類似していて、さほど新鮮味がなかった。
出ようかと言う頃、タバコを吸いたいのですが、灰皿ありますか、と尋ねた。当時私は喫煙をしていた。奥へ下がった亭主が手にして戻ったのが上掲の灰皿だった。清潔な地に赤々と描かれた木瓜、柔らかな全体、紛れもなく陶齋で、一目で惹かれた。
これ頂けませんか、と言うと、「うーん」と亭主がうなった。自ら気に入っていて出したくない風が伝わった。遠くから訪ねた私も欲しい。「店先に、この家のものは全て売り物です、と書いてありましたが」、と迫ってみた。
「ハアー、仕方ありません。しかし箱はありませんよ」と仰った。
構いません、箱など要らない、亡き父もそうだった。なにより木瓜は初めてで、署名も若い。新聞紙にくるまれた器を座席に座らせ上着をかぶせて帰ってきた。
幸運は何がきっかけになるか分からない。この時ばかりは百害のタバコが手引きとなった。
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