2010年11月

花、突然で魔法のような事件

2010年11月30日(火曜日)

 荒天の中休みで日中はよく晴れた。庭の片隅にリンドウが一輪陽に当たっていた。他の大きな株から実生として自然に着床した幼い株と思われた。わずか10数センチほどの背丈、花を付けるまでまったく気づかなかった。

 

 種から育ったリンドウは二度冬を越えなければ咲かないと言われる。それに今年の厳しい夏をよく一人で耐えたと思う。今日の秋最終日、蕾を膨らませ花の面目を保ってどこか誇らしげだった。

 

 植物が花を咲かすということは、自らを世界に知らしめることにほかならない。それは普段地味で静かな彼女たちにとって、やはり突然で魔法のような事件なのではないだろうか。

   リンドウ

 今日は「思い込み」と「花、突然で魔法のような事件」の二つを書きました。

私の思い込み 美しいスーザン・ヘイワード

2010年11月30日(火曜日)

 昨夜の放送“永遠のヒロイン その愛と素顔「ヴィヴィアン・リーを探して」”を見た。ひごろビビアン・リーが一番綺麗、とは妻の口癖で、ほかの女優さんを見るとビビア・ンリーに比べれば,,,とも言う。

  ところが色々と疎く、ビビアン・リーの映画も風と共に去りぬをテレビで一回見ただけの私。それが、妻が彼女に感嘆すると、ほかに綺麗な(またかわいい)女優さんがいるのに、と心中つぶやく。キャリアーなどはお構いなしに。

 『キリマンジャロの雪』の場面より(1952年)
Wikipediaのスーザン・ヘイワード

 50年近く前の学生時代、姉が取っていた映画雑誌で「私は死にたくない」だったかスーザン・ヘイワードの写真を見た。何より脚に驚き、以来詳しくもないのに彼女が一番だと思っているのは、おめでたいことかもしれない。

何とか陶齋分の図録原稿が

2010年11月28日(日曜日)

 樹下美術館の図録について年頭の予定では、まず齋藤三郎氏の分が7月上旬に出来るはずだった。これが超ペースダウンをして現在11月下旬にしてようやく原稿的なものが出来てきた。

 

 A4サイズのエクセルシートに写真とキャプションを割り付けて、元版となる大きな写真をディスクに取る。あくまで素人仕事、一応挨拶文も仕上がり、これからプロの目が入る。

 

原稿 
壺、飾皿(25P、写真75枚)・食器類(17P、40枚)・茶道具(4P、18枚)・絵と書(4P、24枚)・紋様集とサイン集(3P、小サイズで68枚)。合計53P、大小写真225枚ほどのボリュームになった。予定よりも5Pオーバーとなったが削れなかった。

 

 印刷屋さんに、これでは全然ダメですね、と言われればやり直しだろう。図録は大きな公的美術館の展覧会で2年前後かかるとも聞いている。挑戦してみて如何にタフな仕事かが分かった。出来上がりには、必ずや批判もあろう。それを最小限にすることが課題のような気がする。

 

 これまで完成の予定を書いてはきたが、大幅に遅れるだけで全く当たらなかった。このたび齋藤三郎氏分が通れば倉石隆氏分にとりかかって両者来年3月いっぱいまでに何とかと、楽観が顔を出す。その楽観の裏で少々胃が痛んでいる。

祖母の姉の嫁ぎ先を訪ねた  そして野口孝治のこと

2010年11月25日(木曜日)

午後の休診日、上越市頸城区森本の遠い親戚S宅を訪ねた。祖母トワの姉タイの嫁ぎ先で、ご当主とははとこ同志、これまでは門前へ伺っただけだった。今日お庭を公開されると聞いて訪問した。ありし日の地主のお宅で、豪勢な屋敷構えに驚かされた。

祖母姉妹の実家は旧津有村(現上越市新保古新田)の開田地主だった。姉妹の兄で明治5年生まれの孝治(こうじ)は生涯を高田平野の用水保全や野尻湖の貯水と発電事業などに捧げている。また護憲の犬養毅を敬愛して大正時代に立憲国民党から出て衆議院議員を務めたこともあった。

孝治は高田学校(現高田高等学校)を出て福沢諭吉が健在していた慶應義塾理財科へ進んでいる。その人生は諭吉と犬飼の思想を実直に反映したものといわれ、孝治の自室には二人の写真が掲げられていたという。ちなみに孝治の長男は高田市議会議長を、甥の小山元一(かずもと)は初代上越市長を務めた。

 

門からの道
門から母屋へ続く通路
母屋正面
母屋
築山の道
濠(ほり)に沿って築山の道
東から見る家
築山から母屋の東側を見る
手水
手水と庭下駄
濠とモミジ
周囲にめぐらされた濠(ほり)

さて祖母の実家やほかの姉妹たちの嫁ぎ先も家が大きい。トワは医家の我が家に嫁ぐと木造二階建ての病棟のほかに10数部屋を有する住居が建った。本日尋ねた姉の嫁ぎ先が建って数年後の竣工は、姉に負けられない意識もあったのだろう。我が家の仏間は60畳(現在30畳)だった。

昭和28年、小生の小学6年時に亡くなったトワの通夜はその仏間で行われた。普段寡黙な父が座布団をくるんで背負い、赤城の子守歌を酔って歌って踊った。私は驚いて見ていたが、父には特別な日だったにちがいない。

 

実は祖父母は大きな家などで莫大な借財を作っていた。貸し主は祖父の叔母が嫁いでいた酒蔵だった。返済は医師になっていた父の肩に重くのしかかった。現金を求めて満州へ渡ることになる父。志していた大学での学問からの転換はまことに不本意なことだったろう。

勤務地の満鉄病院に佐賀県古枝(ふるえだ)村出身の看護婦・母がいた。
母によると、少々ふけた独身医師が病院にいたという。ある日、どうして結婚しないのかと尋ねると、
「僕には親の大きな借金があるから」と父が言ったらしい。

 

本日の見学は庭だけだった。是非とも屋内も拝見してみたい。外観を一見するだに貴重であり、調査や保護、利用を検討すべきではないかと思った。

ウサギのマシュマロとワイマールのトリオ

2010年11月24日(水曜日)

 はや11月も下旬、普段干支を忘れている私に来年はうさぎですよ、と妻。カフェのほうじ茶でお世話になっている上越市稲田の川崎園さんからウサギのマシュマロを頂きました。愛らしく元気のいいピンクのウサギさんです。大阪市内・柏屋さんのお製だそうです。

 ウサギのマシュマロと
ウサギのマシュマロとワイマールのトリオ(カップ、ソーサ、ケーキ皿)

 

 御菓子を1920年~30年ころのドイツワイマール窯のトリオの皿に載せました。ワイマールは第一次世界大戦を敗戦したドイツが、1919年に民主的なワイマール憲法を発布した東部ドイツ(旧東ドイツ)の町です。人口はたった6万人だそうですが、ゲーテやシラーを生み、若きバッハが10年間も滞在した美しい町だということです。 

 花がらのトリオ アールデコ調の手描きによる花がらトリオ

 

ワイマール窯のスタンプ 
waimar(ドイツ読みヴァイマール)の窯印

理想を掲げた憲法もナチスの出現を許し、およそ15年で終焉を迎えました。
食器の明るい花模様から憲法が現した往時の希望が伝わり貴重に思われます。
 

樹下美術館は当食器も含め、来年も引き続きアンティークをお出ししたいと考えています。

 
 

上越市大潟区の自然 朝日池と新潟県立大潟水と森公園 そしてため池百選

2010年11月21日(日曜日)

 昨日、水野行きまでの時間、上越市大潟区、朝日池は熱気に包まれていた。渡り鳥とそれを追う人々、夕刻になっても県外の車は去りがたく見えていた。皆さんの写真器材は驚くほど高い水準で、バンの荷台に満載の車もあった。

 

 ほとんどのレンズがハクガンに向いていた。ハクガンの飛来地は朝日池を入れて日本で数カ所しかないという。様々な渡り鳥で埋め尽くされる湖面。真っ白な翼の先端を黒く染めたハクガンは遠目にも気品にあふれていた。限界ながら鳥たちを写せて満足だった。

 

 ますます貴重な雁類の飛翔は力強く、元気づけられた。

 

沿道の車 
甲府、水戸、岐阜、浜松などの車が並ぶ
カメラ 
レンズ、カメラ、三脚、みなケタ違い
着水のヒシクイ 
着水するのはマガンらしい
ハクガン 
お尻を向けてるプリンセス、ハクガン
大空のヒシクイ 
青空の飛翔
 散歩の人
今日の新潟県立大潟水と森公園

 

 朝日池は全国ため池百選に選定されました。隣り合わせの鵜の池を中心とする新潟県立大潟水と森公園には密かにリスが生息しています。
 新潟県でため池百選に四カ所が選ばれ、そのうち三カ所が上越市内にあります。

越後上越 米山山中(よねやまさんちゅう)の水野

2010年11月20日(土曜日)

 知人夫婦8人で6,7年振りの上越市柿崎区水野に集まった。囲炉裏を囲んであっという間の2時間半だった。いわなに噛みつき、熱いのっぺを頂き、心ゆくまで新そばを楽しんだ。

 

イワナ 
囲炉裏のいわな
そばがき 
そばがき
いわなの卵 
いわなの卵(こ)
そば 
新そば
古時計 
古時計
吊るし柿? 
つるし柿? 

 

 銚子屋さんのお父さんご夫婦、若夫婦も優しかった。米山薬師の旧宿場、水野の一夜を心に沈ませて帰ってきた。越後に鄙(ひな)あり、山水に田も海もある。

 

晴れて月の出番かな

2010年11月19日(金曜日)

「大根なんてまだ可愛くて、白菜の顔も小さいんです」
荒天が続いていた先日の話。畑は縮んでいたらしい。

 

それが本当に久しぶり、今日は一日中雲一つなく思いっきり晴れた。
「助かります、あずき取りをしましたわ」と農家の方。

 

「朝、霜が降ったすけボートも仕舞いましたわ」は釣り好きの人。
彼の今年の海は終わったらしい。

  尾神岳の昼の月
午後尾神岳に月が登っていて

 

月 夜はこうこうとしていた

 

 天高し昼も夜もなく月を撮る

年とともに早くなる時間とは

2010年11月18日(木曜日)

 年とって感じることの一つに時間が早く経つことがある。ひと月前に来られた患者さんを一週間ほど前のように感じたり、11月初旬から中旬過ぎまでなどあっという間だった。猛スピードのため何かと積み残しも少なくない。

 

 加齢と時間のスピード化はいくつか要因が重なっているように思われる。
 一つとして、作業や思考に対する集中や関心の度合いが以前よりもあっさりしていることもあろう。若い頃は物事にいっそう集中し、沢山の事が気になり、絶えず何事かを深刻に考えて過ごしたように思う。毎日は今より濃く長かったにちがいない。

 

 2つめは年と共に作業や思考の効率が下がっているのだろう。同じ作業に以前の数倍も時間が掛かったりする。時間対効果が落ちていることを、時間が早く過ぎると実感して過ごしているかに見える。

 

  ところで小学校時代の登校で、よく時計屋さんの先輩宅へ寄って一緒に通学した。彼が出てくるまで店先の時計を眺めた。正面の時計の振り子と長針を見ながら1分間の感覚を覚えようとした。おかげで一分当てのような遊びは得意になった。

 

 時間当てと言えば中学生の頃の父に思い出がある。ストップウオッチにもなる時計を用いて父と1分当てをしたが全く勝てなかった。何度やっても父はピタピタと当てた。どうして分かるのか、執拗に訊いた。白状した父はある種ずるをしていたのだ。
 最初にお互い試しの一分をしようと父は言い、それからが本番だった。父は試しの一分間に自分の脈をこっそり計ったのだ。その後は前で両手を組むような動作などをすれば脈は簡単に計れる。さすが親は色々なことが出来ると感心した。

 

 さて3つ目として、5年ほど前のある日、何十年ぶりに暗黙の一分を試した。60秒を数えてみると1分16秒も経っていて愕然とした。その時の時間は自覚よりも1,26倍早く過ぎていたことになる。

 

 古いランプ
仕事場のトイレのそばにある古いランプ
昔の時間は如何ばかりだったのだろう。

 

  もう一つ追加してみたい。私たちは何処かへ出掛ける場合、行きより帰りを早く感じる。知らない所への往復ではなおさらだ。もしかしたら人生も似ていて、半分を過ぎた頃から往路と異なる経験であっても、いつか来た道を歩むような現象が起きているのかもしれない。

 

 昔より時は早く過ぎる。しかし仕事では以前よりも時間を掛けてゆっくり皆様と接するようになった。

 

 今夜センチュリーイカヤさんでヴァイオリン永峰高志氏、チェロ桑田歩氏、ピアノ大須賀恵里さんのコンサートがあった。晩秋のコンサート~ロマン派の甘きささやき~だった。魂を根こそぎさらわれるような大きな感動を覚えた。

(下段の9行を修正しました。11月18日 午後10時ころ)

正午のお茶事

2010年11月14日(日曜日)

 本日、日頃お世話になっている茶道の先生宅で正午のお茶事があった。お炭点前と懐石の初座、濃茶と薄茶の後座、心温まるもてなしを受けた。

 

 小生以外の4人のお客様はいずれもお師範で少々緊張した。しかしご亭主お心入れの印象的なお道具と端然たるお手前に、穏やかなお正客様のリードが相俟って忘れがたい一座建立がなった。このような出会いはめったにあろうはずがない。いつかまたと思いながら一期一会をかみしめた。

 ツリフネソウ
 晩秋の路地に咲いていたツリフネソウ

西国の人 6 大潟の小さくて大きな宝 祝大潟商工会50周年

2010年11月13日(土曜日)

 西国の人5で書かせていただいたように、本日何とか無事に大潟商工会50周年記念式典で講演を済ませた。演題は「大潟の小さくて大きな宝」とさせていただいた。

 

 自分が親の後を継いで上越市大潟区に帰ったのは昭和50年の初夏だった。昼夜なく鳴り続ける電話、日曜日も平日もない診療。患者さんにまみれ地域医療の実践経験もなく精一杯のつもりでも皆さんにはご迷惑をお掛けしたと思っている。

 

 本日午後の大潟商工会50周年記念式典。地元への恩返しのつもりでお話をした。思えば35年前33才の若さで地元に帰った時に、ある種落ち武者の寂しさを禁じ得なかった。そんな自分を密かに勇気づけ頑張れと知らしめた石碑が町内にあった。

 

世界にはばたけ 新潟県上越市大潟小学校の貴重な100周年記念碑文

 

「世界にはばたけ」と刻まれた石碑。昭和48年に建立された大潟小学校創立100周年の記念碑だ。ああ、小さな故郷の町にこんなにおおらかな文言が掲げられている、自分も頑張ろうと元気づけられた。

 

 今日の講演では「西国の人5」までの概要の後、碑文「世界にはばたけ」を写真とともにお話しさせていただいた。

 

 会場
会場1

式典2 
 会場2

 現在石碑は場所を移され校内にひっそりと立っている。碑文のことを知らない先生もおられ、また今日初めて知ったという皆様も大勢いらした。
 碑文多しといえども、これほど立派でひらけたものがある小学校はざらに無いのではないか。スケール感のある教育エッセンスといえるだろう。

 

 現在いずこも地域は追い込まれ、存亡を賭けて頑張らざるを得ない。そんな中大潟商工会の生き生きしたホームページと、皆様の懸命なご努力を目にするにつけ頑張れ大潟!と叫びたかった。上越市へ合併して5年、ますますその思いがつのる。いま身を伏せて耐えてはいても心と意識を広くし、明日への希望へとなんとかつなげたい。

  

 平成の一億円のふるさと創生事業を学童の海外ステイに使っていた旧大潟町。多くの中学生がこの制度で海外を経験した。そのことは今でも生きていると確信している。
 地域振興は重要だ。しかし一過性のイベントで濁しているようでは真の振興にはななるまい。

 

 地域の根底を支え、かつ若者を育てはばたかせることこそ振興ではないだろうか。貴重な税は思慮深く使うべきだ。本日は私なりに日頃の思いをお話しさせて頂き感謝を禁じ得なかった。会場の皆さんの聡明な力感に触れて思いを新たにさせて頂いた。二次会三次会のお付き合いをして嬉しい夕べだった。

 

 ※「西国の人 1~5」は「世界にはばたけ」の碑文に繋げたい一心で続けてみました。お読み頂いた方に感謝申し上げます。

西国の人 5 大潟商工会50周年の記念講演

2010年11月12日(金曜日)

10月6日、ノートに西国の人を綴りはじめて4回まで来た。昔から在宅患者さんの急変などを考えてあまり遠くへ出ない生活が続いている。それで遠方から来た人や遠くへ出掛けてきた人の話を聞く癖がついた。今回のノートの三人もそのような中からのものだった。

記させて頂いた西国人4人のうち三人が広島県にルーツを持たれていた。ノーベル化学賞の受賞者・根岸英一さんは満州の生まれで西国のご出身と言えなくもない。いずれの方にも外に出る果敢な挑戦者の印象が共通していた。

 

思えば学生時代の知人友人も鹿児島、宮崎、高知、広島、兵庫、大阪、愛知、静岡など東海から西の出身者が多かった。彼らは一様に元気だった。

私の拙い経験によると、当地新潟では課題の取り組みに際し、何かと人間関係にエネルギーを費やす。一方西国人たちはリーダーを決めると一丸となって課題に直面し、人間関係はその過程や結果によって構築されたり、再構築される印象を受けた。このような気風が今日も維持されていれば、と遠くから望んでいる。

 

いま社会は閉塞し、萎縮・衰退の危惧が随所に漂う。そんな折々に心を広くして前に出る西国人を思い出す。
ところで明日午後、大潟商工会創立50周年記念式典がある。まことに恥ずかしながら小生が記念講演をすることになった。

 

実は大潟区に昭和48年建立の石碑がひっそりと存在している。単純かつおおらかな碑文で、当地へ帰った昭和50年以来その言葉に勇気づけられた。明日の講演では西国の人を話し、その碑文と希望へ繋げることが出来ればと、思っている。

 海上の虹
いつか見た海上の虹

今日も荒れ模様

2010年11月10日(水曜日)

今日も荒れ模様、これで丸3日、風雨にさいなまれている。昨日の新潟県内は29メートルもの風速を記録して被害も出た。

往診ではしばしば横殴りの風雨に見舞われる。車から患者さんの家まで看護婦さんと一緒に走るが、バケツで水をかけられるように降られることもある。この雨風、冬に向かう裏日本の風物詩としては少々きつい。一方で、長時間耐えて続けられる郵便配達には心底頭がさがる。

今日の午後そんな荒天の中を新潟県庁へ行き、県知事表彰というのを受けてきた。35年間当地で何とかやってこれたのは、患者さん達や同僚や病院さんのお陰だといつも思っている。

秋のベンチ晴れていた日の新潟県立大潟水と森公園のベンチ

西国の人 4 早よ出んかい

2010年11月8日(月曜日)

 10年振りにお会いしたM先生はお変わりなく元気だった。長身の先生は教養人の穏やかさの中に信念の骨格をにじませる人だ。また人をとても大切にされる姿勢は、故郷を遠く離れた人ならではなのか。このあたりに広島県出身者は自分くらいしかいなかったとも仰った。温かい西国から一人雪降る越後へ、寂しい夜も悔しい昼もあったことだろう。

 

 当夜、芝居の同窓会はせっかくの大参集にもかかわらず、ある人間のせいで方向も見えない散漫な時間となった。それでM先生に広島県人のことや、新潟県の田舎にある旧吉川高等学校に赴任された訳などを耳を澄ましてお聞きした。

 

 ご自分が広島におられた50年も前の当時は、学校を出て家に居ると「まだ居たんか、早よ出んかい」、と言われたという。出るのは国内ばかりではない、明治から第二次大戦まで、西国の人達、特に広島県民の海外移住は沖縄、熊本、福岡などを離して断然トップだ。彼らはアメリカ(ハワイやロスアンジェルス)、ブラジル、カナダ、ペルー、アルゼンチンそのほか広く世界へ飛び出している。

 

 そして当日驚いたことに、「実は私はハワイ生まれなのです」と先生は仰った。太平洋戦争前夜、ご一家は渡ったハワイから故国へ戻る決断をされたという。帰国後の終戦まぎわ、故郷・広島で被爆を体験をされ、後に広島大学をお出になると1000キロを一飛びして当地に赴任された。

 大学の卒業に際し、日本では珍しい高等学校の醸造科が旧吉川高等学校に設置されると聞いて、即決されたと聞いた。当夜のM先生は、明らかに果敢で独特な広島県人のほぼ全てを備えて座っておられたことになる。幸せな時間だった。

 

 気の大きさ、果敢さ、何が西国人を、そして広島県民をそうさせるのだろう。広島に関してはその昔、瀬戸内海ばかりでなく、海さえあれば国外へも出て行ったいわゆる海賊・村上水軍の気風が残っているのでは、と先生は仰った。

 

 「まだ居たんか、早よ出んかい」はM先生にお聞きした言葉だ。そしてこのたびノーベル化学賞の受賞者、根岸英一先生は「若者よもっと海外へ出よ」と強調された。
 さらに日本のノーベル賞受賞者18人のほとんどが東海以西、西国の人だとあらためて知って、ある種愕然とした。

 海と鳥

 拙ノートは西国の人 3 の続きです。いずれ5へ続けてみようと思います。

人に歴史あり 山中阿美子さんのお話

2010年11月7日(日曜日)

 昨日午後、樹下美術館陶芸ホールで山中阿美子さんの講演会を無事終了した。人に歴史あり、まして芸術家においておや、、、、感銘深いお話だった。

 

 人は多面的な生き物であろう。しかしながら子でなければ語れない父の像はまぎれのない真実にちがいない。昨日当館常設の画家・倉石隆画伯のご長女阿美子さんが語られた父の不遇と幸いなど、一時間のお話に心震えた。そして新たな親しみをもって倉石隆の絵画を見ることができる幸せを実感した。

 

阿美子さんお父様の自画像の前で 

 

 「子ども心に父の絵は暗く、ともすれば怖いと思った。しかし父はいつも明るい人でした。」 何という言葉、本当に素晴らしい講演でした。

 

 本日、満席にして頂いた皆様、新潟からのお客様、東京から駆けつけて頂いたご親族の方々、本当に有り難うございました。

 

会場  開演一時間前の会場。
これまで椅子のレンタルは法外なコストでした。スーパーで一客780円くらいでしたので、この春思い切って揃えました。柿崎町で何度も演奏会を聞かせていただいた故佐藤実さんにならってそう致しました。普段はスタッキングして車庫に入れています。

 

 最後にあと一ヶ月半で樹下美術館は今年の閉館です。ご来館頂いた皆様、当拙ノートをお読み下さる皆様、心から御礼申し上げます。

 樹下美術館は市の一銭の補助を受けずやせ我慢を通しております(今のところ)。どうか今後とも宜しくご愛顧のほど、腰折りエビの如くなってお願い申し上げます。
                                       感々謝々

いくつかのささやかな文化

2010年11月3日(水曜日)

 時に風雨時に陽がさす不安定なお天気だった。ヒマがあれば海が見たくなる自分、午後の雁子浜で佐渡汽船を見た。

 

 二日余り続いた強風の余波が残る海上を遠ざかる汽船の果敢さに感心した。西風は追い風のはずで、航行はより不安定なことだろう。色々あろうがずっとずっと頑張れ佐渡汽船。

 佐渡汽船 
 果敢な佐渡汽船

 

 午後から寄った樹下美術館。荒れ模様の日にもかかわらずお客さんたちがこられていた。中に、テーブルの紙ナフキンで素敵な細工を残された方がいらして、スタッフに見せてもらった。初めて目にしたがにわかに信じられない出来映えだった。

バレー 動き、表情,,,素晴らしいです

 

 それから昔一緒にお茶の稽古に通ったAさんにもお目に掛かった。俳句をなさっていて、カフェで魅力的な句を聞かせて頂いた。お仕事に趣味に、昔の仲間が頑張っていることはとても嬉しい。こんな再会が出来るのも美術館を営むことの果報にちがいない。

 

 良い文化の日だった。

ジョロウグモの切なさと愛しさ

2010年11月2日(火曜日)

  トイレの窓の前で10月上旬から見ていたジョロウグモ。およそ一ヶ月間、メスは沢山獲物を捕ってみるみる大きくなった。一方オスはよく見ないと分からないほど小さく、メスから遠く離れて過ごしていた。

 

 メスが成熟するとオスは徐々に近づき、メスが捕食などで気をそらしている時を狙って交尾するらしい。交尾はメスの腹に素早く抱きついて行われ、運が悪ければその前にメスに食べられることがあるそうだ。
 小さなオスが長い手足の恐ろしいメスの腹に抱きつくのは命がけだろう。また運良く交尾出来ても直後に食べられるとも言われる。

10月5日  ジョロウグモのメス、小さなオスは巣の遠くの方にいる(10月5日)

オスが接近していた 冷たい雨の日、成長したメスのそばで交尾の機会をうかがっているようなオス
(10月25日)

オスが居なくなる 
翌日オスの姿はなかった。交尾が成功して食べられたのだろうか。
(10月26日)

誰も居なくなった 一週間後、ぼろぼろの巣にメスも居なくなった
(11月1日)

糸が一本残った 
前夜から大荒れが続いた今朝、糸一本になった巣 
(11月2日)

 順調であればメスは産卵のために巣を離れたのだろう。産卵後は白い糸でしっかりくるんだ卵を守り、何も食べずに過ごして寒さの到来とともに命絶えるという。

 

 歌舞伎役者のクマに似たメスの恐ろしい紋様は、ハチや鳥から自らを守ったり、オスの度胸を試すものでもあったのか。一見ふりかけのようなオスにしても、命をかけて交尾を行ったと考えたい。

 

 荒れた日、一本だけ残った糸に一生懸命な生き物の物語を感じた。
 

台風予報の東京へ

2010年11月1日(月曜日)

 年に一回、学生時代の同級生三人が夫婦して集まる会が一昨日東京であった。もう十数年続いていて、上越でも三度集まった。

 

 今回は台風が接近しつつあった東京へ。土曜午後、直江津駅に着くと予定の特急は運休。後発するほくほく線の各駅停車まで待って、何とか予定の時刻に間に合った。ほくほく線のⅠ時間半は、日頃敬愛している上越の先輩と思いもかけずご一緒して、あっという間だった。

 

 一年に一回の会合、年取っていく私たち。シェフ岸本直人氏の料理を4時間堪能した。みなで何を話したか大方忘れたが、高知出身のAは兵隊と虎のことなどを、静岡県のBはショパンは天才など、私は新潟県・頸城平野の水田の素晴らしさを話した。

 関連する隣のデセール(デザート)専門店のパティシエ森田一頼氏は新潟県のご出身だった。森田氏ともお会い出来て、ご活躍をお祈りした。

友人 ワインを選ぶB

 夜更けて河岸をを変えた。臭い物が好きだという友人はさらに粕とりブランデーからマールを選んだ。それから一年に一本、恒例になったダビドフの葉巻を楽しんで日曜深夜のビルを眺めた。

深夜のバー 
マール、グラッパから選ぶ
3シガーセラー 
甘い香りのシガーセラー
   

  ごたんの小児科 
ごたんの小児科

 翌日曜日午後は新装なった根津美術館で宗時代の青磁を満喫した。その後皆と別れて、五反野に開業した息子のクリニックを訪ねた。愛らしい診療所を見て胸がいっぱいになった。夕食は彼ら夫婦と一緒の貴重な時間だった。

 

 台風もさして影響なく、何かと重かった頭が軽くなった週末だった。

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