2009年2月

齋藤さんと我が家 4 餃子

2009年2月27日(金曜日)

  前回の齋藤さんの湯飲みに続いて、今回は我が家への訪問を記したい。
多忙な齋藤さんだったが、時には我が家を訪ねてこられた。両親が上機嫌なのが何よりで、私たち子どももよく同席した。先生の声はよく響き、世の大家の話題から古美術のこと、地域の話など快活に語られた。万事自然で、座に笑いが絶えず、子どもでも楽しかった。

 

 ひもとけば氏の18才からの10年余の生活は関西だ。しかも近藤悠三から富本憲吉へと、きら星たちへの師事だった。両師との出会いは齋藤さんの才能を開花させて余りある幸運だったにちがいない。さらにサントリー創業者鳥井信治郎氏の庇護で、いっそう文化への磨きが掛ったことと思う。

 

 そんな齋藤さんが戦後、新潟の高田(現上越市)で仕事を始められた。作品、人柄とも人気があり、あっという間に内外の人々を魅了して、多彩な交流が生まれた。あるときなどは棟方志功氏を伴って我が家へ来られ、非常に驚いたことがあった。

 

 齋藤さんは食通としても知られていた。その氏が当家で特に好んだのが餃子だった。昭和30年代なか頃まで、当地で餃子は珍しかった。満州仕込みの母の餃子は、皮が厚く具と油がたっぷりで美味しかった。応召で大陸へと渡られた齋藤さんは、ことのほか母の餃子を喜んだ。

 

 何度かお子さんと甥子さんたちを引き連れて、賑やかに来られたこともある。私は餃子作りが出来たので、母と並んで台所に立った。ある時などは、出しても出しても皿は空となり、止めどなく焼き続けた記憶がある。

 

  満腹のあとは子ども同士で海へ行った。高田はやや内陸なのでお子たちは海を喜ばれた。一行を後ろから写した古い写真があるが、懐かしい。二代陶齋の尚明氏とは時々お会いするが、そのたびに餃子のことは忘れられないと仰る。

昭和34、5年。大潟町の浜、帝国石油の人工島桟橋で。

齋藤さんと我が家 3 湯飲み 

2009年2月25日(水曜日)

 前回では父が我が家へ運んだ齋藤作品の多様さを記させて頂いた。ところで齋藤さんの作品で、最も多く作られたのは湯飲みだろう。小さくとも一器一器に才気と暖かさが現れ、齋藤世界そのものだ。ここでは形状について書いてみたい。

 

 齋藤さんの湯飲みの形状はおよそ二つに分けられる。ずんどうに近い筒型と、胴がふくらんだ太鼓型の二種である。筒型には高台が無く、中を削ってあるだけ。太鼓型は高台があり口辺(こうへん)が反る端反(はぞり)りが加えられている。前者の多くは磁器が主体であり、後者はほとんどが陶器だ。

 

 形のほかに絵付けの違いがあった。筒型は呉須(藍色顔料)による染め付けはじめ色絵も上品の気があった。一方、太鼓型は灰釉や鉄また辰砂(しんしゃ)を地色として、呉須や鉄でラフな文様が刺されていた。

 

 このような形状の違いは、番茶向きと煎茶向きへの配慮だったと思われる。煎茶は、温度が低く量は少な目だ。左手に乗せ右手で軽く握って飲む茶となる。番茶に比べて上格だから絵付けも染め付けなど細筆が合っている。

 

 一方番茶はくだけた飲みものであり、熱くて分量も多い。気楽に片手で握ってぐっと飲む。端反りがあるため一口で多く飲め、ここを持てば熱も避けられる。そして高台だが、番茶の高熱が卓の塗りなどに伝わらぬよう配慮されたのかもしれない。あるいは器に豪快さを与え番茶の趣を高めたのか。こうなると両者の違いを、齋藤さんに聞いてみたくなる。想像だが器を手に、立派な鼻に響く声でにこやかに説明されるお顔が浮かぶ。

 

 思えば我が家では食事には齋藤さんの大きな急須でどかっと番茶が出た。そして菓子を食べる時は煎茶だった気がする。父は煎茶の時に湯冷ましを使って自分の分だけ丁寧に出した。そして母や私たち子どもは出がらしに湯を注いで適当に飲んでいたように思う。そして父は気心あう人には惜しみなく湯飲みを上げた。

 

 ※齋藤さんは湯飲みと別に、煎茶専用の宝瓶や煎茶器揃えも作られています。

 

以上、齋藤さんと我が家ではなく、「齋藤さんの器と我が家」の趣になってしまいました。次は我が家を訪ねた齋藤さんを書いてみます。このたびは急須も予定していました。しかし分量が多くなりましたため、以後にさせて頂きます。色々と申し分けありません。

 


筒型で磁器。きっちり描いて高台が見えない。

 


太鼓型で陶器。呉須や鉄でラフな絵付け、高台と端反りがある。

 


裏面から。大きさ、高台、土の様子。

 

 

齋藤さんと我が家 2 セメダイン

2009年2月21日(土曜日)

  前回は齋藤さんが我が家にもたらした灯のことを書いた。齋藤さんの器は父の手でせっせと運ばれるようになった。いつしか我が家の飯と汁碗以外ほとんどの食器は齋藤さんのものとなった。朝食のパンや果物は草模様が蝋抜きされた黒い鉄釉の皿に乗り、牛乳も鉄絵のマグカップだった。大きな手が付いたマグカップは民芸調の筆でムギワラ、草、文字など様々な文様が描かれていた。

 

 蜂蜜が我が家のブームになった時に蓋が付いた灰釉の壺が登場した。この器の蓋は本当に滑らかで、開けるときは一瞬すっと吸い付くような感覚がした。やや地味だった器は蜂蜜ブームの後で梅干入れに変わった。

 

 小さなものではつまようじ入れがある。普段のものは立てて入れる筒状の形で、呉須(藍色の顔料)でざくろが描かれていた。楊枝入れはもう一つあって、これは来客用だった。長方形の器に楊枝を横に置く物で色絵の蓋が付いていていた。この楊枝入れはとても可愛くきれいで、父の部屋の奥深くにあった。しかしいつしか紛失か破損かで失われ、非常に残念に思っている。

 

 ところで食器は陶器が多い。陶器は磁器と異なり柔らかく暖かみがある。その分、欠けやすい。子ども5人を入れた7人家族のを、毎日出して使って洗って仕舞う母。手早に過ぎる母はしばしば器をカケさせた。父にはその都度「齋藤さんの器は壊れやすいから」と言い訳をした。よく母を叱る父だったが、あきらめたのか案外黙っていた。そして多くは、当時流行のセメダインで接着して再び使った。

 

次は齋藤さんの真骨頂とも言える湯飲みと急須にします。

 

楊枝入れ(これにもセメダインが) 蜂蜜や梅干しを入れた壺
   
   

遅く来たドカ雪

2009年2月17日(火曜日)

 昨日から冬一番の雪となった。しかもドカ雪の様子。今ままで雪国とは思えないほどカラカラとしていたので、不意を突かれた感じがする。

 

 午後から雪の中を4軒の往診と訪問をした。車は右へ左へ歩行者と対向車をよけながら喘ぐように走る。毎年お年寄り達への冬の悪影響はこれから現れる。まさかのドカ雪はまだ続くらしい。

 

 あるお宅の庭でとても良く出来た雪だるまを見た。ケアマネさんも写真を撮って帰ったと、作者の若いおじいちゃん。大おばあちゃんの血糖値も落ち着いて、しあわせなおうちです。

 

齋藤三郎さんと我が家 1 灯り

2009年2月14日(土曜日)

 するすると時は過ぎて間もなく3月、今年の開館が近づきました。旧年に増して樹下美術館が愛されますよう一同励みたいと思います。
ところで樹下美術館では倉石隆氏の絵画とともに齋藤三郎氏の陶芸作品を展示しています。今回は齋藤氏と我が家の思い出を書いてみます。思い出といっても私の小学生から高校時代くらいまでですが、お読み頂ければ有り難く思います。

 

   齋藤三郎さんと我が家 1 灯り

 昭和21年春、医師だった父は、母と4人の子どもを引き連れてかろうじて満州から引き揚げた。戦前、祖父の借金返済のために渡満し、再び無一文に戻っての帰国。実母のほか疎開で留まっていた何人かの父の兄弟も加わり、戻った実家は楽ではなかったようだ。翌冬の私たちのゴム長も母が工面した借金で買ったと聞いた。

 

 まもなく、結核が得意だった父はわずかに残っていた田畑を売り払い、渋る銀行へ通ってレントゲンを買った。ようやく家に活気めいたものが漂いはじめたが、今度は診療の忙殺でトゲトゲしい緊張感が家を包んだ。父は険しく、母は硬かった。そんな我が家に突然のように明るさを引き連れて登場したのが齋藤三郎さんの器だった。

 

 戦後まもなく齋藤氏は戦地満州から帰国し、兄・泰全和尚の寺がある新潟県高田市(現上越市)で作陶を始めた。昭和23年ころか、父はある若い結核患者さんの紹介で齋藤さんと出会ったらしい。そしてすぐ氏の作品に夢中になった。当初、小さかった自分にはよく分からなかったが、まもなく齋藤さんの作品が特別な意味を持っていることを知るようになった。

 

 年に数回、窯出しのたびに父は汽車で高田へと向かった。そして夕刻、リュックサック一杯の作品を背負って帰って来た。皆の前で荷がほどかれると、新聞くずの中から皿、壺、湯飲みなどが次々と飛び出した。全ての器に絵付けが施されていて、花や文字の生き生きした文様は子ども心をも打つようになった。この時ばかりは、見たこともない笑顔が父に浮かび、母の声は華やいでいたのだ。 

 

 私たちでも頬ずりしたくなるような器の登場と両親の喜び。齋藤さんの作品は普段寒々としていた家に思いもよらぬ灯りをともすこととなった。

 

色絵色紙牡丹紋皿

 恥ずかしながら続きます。

飲み込み。そしてシーグラス。

2009年2月11日(水曜日)

  休日だったが午後に往診があった。比較的安定していた脳梗塞の方。しかし数日来ほとんど飲食をしなくなったという連絡。ご本人はまだお若い。よく聞けば飲み込み障害のためひどくむせた日の恐怖感が引きがねと考えられた。早めに専門的なリハビリを受ける事にして点滴をした。

  ところで日本は技術大国であり、とりわけ微細なテクノロジーに優れている。一方、飲み込み障害の裾野は広く深刻な課題だ。これには口腔、咽頭・喉頭、食道などの極めて複雑なメカニズムが関係している。ナノテクノロジーを進化させている今、飲み込みを補助するコンパクトな装置を願ってやまない。

 やや穏やかな昼間だったので、近くの海に寄った。昨年7月、浜辺でシーグラスと貝を拾い、秋には海に戻そうと書いた。しかしそれが子どもたちや孫に喜ばれて、シーグラスはそのまま我が家にとどまった。その後、私が一番気に入ってしまい、暇をみては海へ行くようになった。

植物画・ボタニカルアートの終了

2009年2月6日(金曜日)

正月2日から描き始めた白のデンドロビュームが終わった。3年半振りの絵筆。恥ずかしながら今夜で終了にした。当初2,3週間くらいの予定が一ヶ月以上もかかってしまった。

 

 モデルの花には感謝している。暮れのホームセンターで990円で求めた花。飛ぶような時間のなかで、生き生きと最後まで私をひっぱってくれた。いつもながら花の実物は私の絵より何十倍も美しい。それでも無理を承知で描きたくなってしまう。

 

 やはり白い花は難しかった。今回はマットを楕円にして、細い金縁を入れてはなむけにしたい。次はチューリップを描いてみたいと思った。

 

 二月になって陽が長く強くなって、もうすぐ春。3月1日から樹下美術館は今年度の開館を致します。

 

       
なんとか終了 モデルに感謝
   
   

最終日

2009年2月1日(日曜日)

 本日午後5時、新潟市における私のまちの美術館展が終了しました。まぎわまで来館者様は絶えず、企画の成功を実感しました。

 

 色々お世話になった新潟県文化振興財団ならびに新潟日報社に深く感謝申し上げます。 

 

 正月来、描いてきたボタニカルアートのデンドロビュームはとうとう一ヶ月を越えてしまいました。何かと忙しくて遅れました。今夜は就寝前に茎に陰や枯れなど少し手を入れました。早くしないと花の変色が始まりそうです。前回に続いて今回はno7の掲載でしょうか。

 

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