第7回樹下のゆかり(旧今月のゆかり)は上越を訪ねた高浜虚子、星野立子父娘です。
昭和23年、齋藤三郎(陶齋)は上越市寺町で登り窯を築きました。後に俳人の星野立子氏がこの窯を訪ねています。立子は俳人高浜虚子の娘。女性で初めて俳誌の主催者となり「玉藻」を発行していました。
陶齋は虚子たちと親交があったと見えます。立子の陶齋窯訪問のほか、虚子が住む鎌倉に窯作りを打診されている事を知らせる手紙が残っています。
陶齋窯を訪れた立子の記念写真を撮影したのは、陶齋と親交深かった写真家濱谷浩氏でした。濱谷氏は昭和20年から27年まで上越市に住み、裏日本の風土をはじめ著名な人物たちの撮影に取り組みました。
濱谷氏はまた昭和21年9月5日、直江津の五智海岸(現上越市)で虚子と立子を撮影しています。二人は直江津で開かれた虚子の同人俳誌「ホトトギス」600号記念頸城(くびき)俳句会に参加するための来越でした。句会は五智の光源寺で開催され、105人の俳人が参加したそうです。親子はその晩、近くの和倉楼に泊まっています。虚子は昭和6年にも当所で昼食を摂ったことがあるようです。
記念句会で虚子は
野菊にも配流のあとと偲ばるる
畳替えせねど掃除のよく届き を詠み、
立子は
汐汲みの二人に秋の波打てる を詠んでいます。
虚子の「野菊にも」は光源寺に句碑があります。光源寺は親鸞聖人が流配された上越市五智にあるゆかりの名刹です。立子の「汐汲みの」とも歴史を今に季節感も素晴らしい句だと思います。
今年は虚子没後50年ということです。当館「樹下のゆかり」のミニコーナーでは以下のように上越を訪ねた虚子、立子氏の写真と資料、および両氏の短冊を展示致します。
○陶齋窯を訪ねた立子一行の写真
○濱谷浩写真集「福縁随處の人びと」中、五智海岸における虚子、立子のページ
○ホトトギス第600号
○虚子、立子の短冊3枚
陶齋の登り窯を訪ねた星野立子氏(後列中央:濱谷浩氏写す)。物品欠乏の時代ならばこそ、芸術・文芸はより生き生きと立ち上がったのでしょう。
昭和21年9月25日直江津(現上越市)五智海岸に佇む虚子と立子。「野菊にも」の色紙もある(福縁随處の人びと:濱谷浩著 発行所創樹社 1998年4月11日発行の関係ページより)。戦争で浄化されたのか澄み渡った大気が感じられる。
光源寺の記念句会が掲載されたホトトギス第600号(発行兼編集高浜年男 発行所ホトトギス発行所 昭和21年12月1日発行)
上記資料とともに以下の短冊を展示いたします。
女よし男なほよし朧月 虚子
灰皿に茶托に桜餅の皮 立子
風鈴の水に映りて鳴りにけり 虚子